日蝕

 こんにちは。

 

 今回は平野啓一郎のデビュー作『日蝕』の記事。

 

 

 いつの間にか九月に入って、夏休みも半分終わってしまった。来年は院試やら研究室配属やらがあるので大学生活最後の長期的夏休みともいえる。さらに今年は平成最後の夏休みということも重なり、妙な焦燥感があったりする。長期休暇の度に何か創造的なことをしたいと考えるのだけれども、毎回何もできずに次の半期が始まる。今回も何もできずに終わる予感がする。予感は確信に変わりつつある。焦れば焦るほど何もできなくなる。

 

 ここで何も書けなくなってしまった。内省は僕をどこへも連れて行かないな。

 

 

 さて、平野啓一郎の『日蝕』だが、これもまた僕の動きを鈍くさせる作品だった。

 

 平野啓一郎京都大学に在学中の1998年にこの『日蝕』を『新潮』に投稿し、当時のの新人としては異例の一挙掲載を経てデビュー。そして翌年には芥川賞を当時最年少の23歳で受賞。とのこと。この経歴を眺めるだけで自分は何をしているのだろうという気分になる。なっても仕方がない。仕方がないのか?とりあえず話を進めよう。

 

 この作品の特徴として挙げられるのは文体だ。擬古文、といわれる明治期の作家を彷彿とさせる文体で書かれている。とだけ書いても伝わりにくいと思うので作品の一部を引用してみる。読みが難しいやつだけ括弧でルビを振った。

 

 〈…司教は、辺幅の脩(おさ)めぬ人であった。白晳(はくせき)の美しい貌容(ぼうよう)で、一目でそれと解る温厚な人柄を湛えていた。彼は、焦燥と、謁見の欣(よろこ)びと、疲労とから、些か狂態を為して語る私の口吻に、顔を顰めるでもなく耳を傾けていたが、話が一段落すると、肝心の文献を入手する為には、やはり、仏稜(フィレンツェ)にまで足を運ぶのが好かろうと云う感想を漏らした。…〉(p19)

 

 美しいな。書き写すとより一層美しさが分かる。これを200P近く書く23歳って何者だよ。本当に打ちのめされてしまう。このような文体だから読みにくいかというとそんなこともなくルビをしっかり読めばなんとなくでも意味は取れる。なので思っていたよりもさっくりと読めた。情景描写も難なくイメージが頭に浮かぶ。特に空の描写が秀逸だと感じた。

 

 また、文体のせいか何かは知らないがデビュー当時は「三島由紀夫の再来」なんてコピーで売り出されていたらしい。はてしてそうかしら、と三島由紀夫作品は『金閣寺』と『潮騒』しか読んだことがない僕が訝しげにインターネットの感想を探ったところ、再来とは言い難いという意見がちらほら見られたのでそういうことなのだろう。小説だってビジネスだものな。でも「〇〇の再来」なんてキャッチコピーで売り出されるのすごく憧れるね。

 

 

 内容としては上記の引用でも少し触れているが、とある文献を手に入れるためにフィレンツェへ向かう神学僧の話だ。舞台は15世紀のフランスで、神学僧は旅の道中で出会った錬金術師に導かれ、洞窟の中に潜む両性具有者を発見し、そして魔女焚刑の最中に神秘的な体験をする…というあらすじである。ほとんどネタバレといって差し支えないが、別にこの小説では大事なところはあらすじではないし、なんなら文庫本の裏表紙にもほとんど同じことが書いてあるので構わないだろう。信仰をテーマとしているがそこまで宗教的知識は必要とはしない。知識があると更に面白いのかもしれないが。時代設定的にも擬古文という選択が活きているように思う。これを今の口語体で書かれたとしたら内容とも乖離が感じられて結構馬鹿馬鹿しくなってしまうだろうな。

 

 そして平野啓一郎自身、実験的な描写に取り組んでいるらしく、この『日蝕』でもその実験性が感じられるページがある。それについて語りたいのだけれどもさすがにこのネタバレはまずい気がするので是非とも読んでいただきたい。読み終わったら僕に声を掛けていただきたい。是非とも。

 

 

 23歳まであと2年と2か月。僕は何を残せるのだろうか。