熊を放つ

 こんにちは。

 

 今回はジョンアーヴィングの『熊を放つ』について。村上春樹訳。

 

 

 これは完全に僕の最近の持論なんだけれども、いい小説というのには種類が三つある。

 一つ目は読んでいる時に没入ができる小説。ページをめくる手が止まらないっていうやつね。ミステリーにはこのタイプが多い。謎を解明するっていう性質上そうなることは当たり前ではあるけどもね。(例としてあげられるのは、アガサクリスティ『そして誰もいなくなった』、吉村萬壱『クチュクチュバーン』)

 二つ目は読了後に感動がやってくる小説。純文学とかに多いタイプ。読んでいる時は結構描写がまどろっこしかったり大したストーリーの発展も無かったりで苦痛ではあるが読み終えるとガンガンに感情が揺さぶられる。(J・ケルアック『オン・ザ・ロード』、太宰治『斜陽』)

 そして三つ目は一つ目と二つ目の性質を兼ね備えている小説。つまり小説にのめり込むことができてなおかつ読後感が良いもの。これは世間一般的にも名著とされていることが多い。僕が絶賛するのも基本的にこのタイプの小説たちだ。(高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』、筒井康隆『旅のラゴス』)

 

 この記事を書いていて「再読可能性」という別ベクトルも考慮に入れるべきかと思ったものの、話がややこしくなるのでとりあえずは没入性、読後感の二つのベクトルが僕の小説を図るものさしだと思っていただきたい。

 

 本題に入るが、ジョン・アーヴィングの『熊を放つ』は二つ目のタイプ、読後感が素晴らしい小説だった。

 

 読後感、と簡単には言うもののこれにもいろいろと種類があって、最後の頁を読み終えた瞬間に心が持っていかれるタイプや読み終えてから普段の生活で反芻するごとに心が奪われていくタイプなどがある。即効性と遅効性という言葉が的確な気もする。『熊を放つ』は遅効性の読後感を伴った小説であった。

 

 これまでにも遅効性の読後感を持った小説を読んだことは何度かあった。例えば三島由紀夫の『潮騒』、これは描写の美しさに深く感動した。閉鎖的な島で生きる若者の根源的な美が描かれていて思い返すたびにほれぼれとする文章だった。しかしこの読後感も別の本を読んでいるうちに薄れていってしまった。だが『熊を放つ』はそのように読後感が薄れることは無く、いまなお僕の感情を揺さぶり続けている。

 

 この小説は三つの章に分かれていて、第一章が僕ことハネス・グラフとジギーことジークフリート・ヤヴォトニクの出会いから始まるちょっとした冒険の話。この一章で二人はお金を出し合って買ったオートバイに乗り、動物園を訪れ、この動物たちを檻から放つことができればどれだけ素晴らしいか、という話をする。そしてこれはちょっとネタバレになってしまうが一章の最後でジギーはあっさりと死んでしまう。第二章はそのジギーが残した二つのノートブックの文章が並ぶ。一つ目はジギーの家族・縁者のエピソードが語られる”自伝”であり二つ目はジギー自身の動物園視察記録である。この二つのノートブックが”僕”の配慮により交互に並べられている。そして第三章ではノートブックに影響された”僕”が動物園破りに挑戦する。

 

 僕(ハネス・グラフではない)はこういった男二人の青春劇が大好きだ。(適切な言葉が思いつかなくて青春という言葉を使った。実際はもう少し輝きの欠いた言葉が合うと思う。)つまり、『風の歌を聴け』の「僕」と「鼠」や、『オン・ザ・ロード』の「サル」と「ディーン」などだ。基本語り手の方が少し引っ込み思案な性格で相棒の方が急進的な性格だ。『熊を放つ』でも同様でハネス・グラフは迷いがちでジギーはあたりかまわず突っ込んでいく。

 

 なので一章はスルスルと読むことができたのだが第二章で躓いてしまった。動物園視察記録の方はジギーの語り言葉で語られるので読みやすいのだが、自伝の方は第二次世界大戦後のオーストリアの情勢がキーポイントとなっていたので、世界史に明るくない僕は読み進めるのに苦痛を感じた。”僕”の配慮がなければ読み切ることすら怪しかった。

 

 さて、第一章でジギーは死んでしまうわけだが、第三章でもハネス・グラフの見る幻影としてたびたび登場する。これは村上春樹の鼠三部作の三つ目、『羊をめぐる冒険』と全く同じ構図だ。鼠は死んでいて彼の化身である羊男が主人公の目の前にあらわれる…(ネタバレになってしまったらごめん)『熊を放つ』ではそこまで明確な記号としての亡霊は出てこないが要所要所で現れハネス・グラフの行動に影響を与えていく。次第にハネス・グラフの喋り方もジギーのそれに似たものとなっていく。恐らくこの侵食の描写が秀逸なのだろう。読んでいくうちに自分の頭にまでジギーの言葉が入り込んでくる。この記事を書くにあたりジギーの亡霊が出てくるシーンを探したが、自分が思っていたよりも断然少ないことに驚かされた。これは描写のタイミングとその度合いによって為せる業だと思う。

 

 自分の意志の弱さを内省して気分が落ち込んだときにジギーが僕に話しかけてくる。ハネス・グラフくん、そろそろ君の混乱した未熟さをしゃっきりさせた方がよさそうだぜ、と。全く持ってその通りだと考えはするが、僕はハネス・グラフでないことが問題だ。乗るべきオートバイも持ってないし、破るべき動物園もない。そうして幻影を振り払ってもまたふとした時にあらわれる。病的だろうか?

 

 

 

 『オン・ザ・ロード』によってこのブログは始まったが、もし『オン・ザ・ロード』を読んでなかったとしても、この『熊を放つ』を読んだ後に僕はブログを始めていただろう。