こんにちは。

 

 今回は小山田浩子芥川賞受賞作『穴』です。

 

 

 純文学の感想を書くのは難しい。ミステリーやSFなどと違って捉え所が無いからだ。まるで暗闇からすっと表れて暗闇へすっと消えていくようだ。真夜中に街灯が少ない路地ですれ違う人間のことを想像してもらうといい。その人自身のイメージは曖昧模糊としているけれども、すれ違ったという事実は心にちょっとした衝撃を与える。家に帰って眠ろうとしたときに、そういえばあの人はどんな人だったろうかと思い返す。少し思い出してきたところで眠りに落ちる。

 

 『穴』もそんな小説だったと思う。大まかなあらすじを次に記す。

 

 夫の実家の隣に移り住むことになった私は仕事を辞め、何もない日々を送っていたが散歩途中に見たこともない黒いけものを追って、土手にあいた穴に落ちる。そして甘いお香の匂いが漂うご近所さんや義兄を名乗る知らない男、いつまでも庭に水を撒いている義祖父などと奇妙だが奇妙とも言い切れない日々を送る。

 

 絶妙な距離感で書かれた小説だと思う。奇妙と言えば奇妙なのだが、人に話せば「まぁそんなこともあるんじゃない?」と言われてしまいそうなストーリー。当事者にしか知りえない不気味さがリアルに描かれてる。特にリアルなのが会話文。喋った言葉をそのまま文字に落とし込んでいるような書き方だ。読んでいて「あぁこんな会話の流れになるよなぁ」という感想を抱く。そんな中で一人異質なのが義兄を名乗る男。彼は他の登場人物と喋り方が異なる。なんといえばいいか分からないけれど、人の心のパーソナルスペースに片足突っ込んだ喋り方というのが適切かもしれない。人が黙っていることをわざわざ言ってしまうタイプだ。それも自覚的に。現実世界でなかなかお目にかかれないタイプではあるけれど、もし出会ってしまったら僕はしかめっ面を抑えきれずその人がいる場から静かに立ち去るだろう。同じく芥川賞作家の田中慎弥の作品に『図書準備室』というものがあるが、それもこのタイプの人間が語り手の作品だ。とても読み続けるのが苦痛だったがそれでいて目が離せない作品だった。ラストシーンがとても印象的なのでおすすめです。

 

 

 女性作家にありがちの粘っこさというかドロッとしたものは小山田浩子からはあまり感じられなかった。人の心の動きを主体においていないことが理由だと思う。主人公の私以外からはほとんど心が感じられなかった。それでいてリアル。他人の心は分からないというテーマに対し心を描写しないというアプローチをとった作品なのかもしれない。多分無意識的なものだろうし本質はそこにないのだろうけれども、僕の目にはそう映った。

 

 

 新潮文庫版で読んだのでこの『穴』のほかに『いたちなく』『ゆきの宿』という作品と笙野頼子による解説が収録されている。この解説に度肝を抜かれた。破天荒としか言いようがない文体で、頭に浮かんだ文章をそのまま畳みかけるように連ねている。笙野頼子なんて全然知らなかったけれど、このたった6ページの解説だけでとても引き付けられた。いつか読んでみたいと思う。こんな予想だにしない出会いがあるのが文庫のメリットだな。