カラマーゾフの兄弟

 4月から研究室生活が始まった。朝の九時から夕方まで狭い実験室に閉じこもっている。夏には院試もあるし、この調子ではしばらく本は読めそうにないなと思っていた。そんな時に、ゴールデンウィークには研究室が無いことが発覚した。てっきり10連休の間も数日間は実験があるものだと考えていたから、予定を埋めておらず、急にぽっかりと時間ができてしまった。じゃあせっかくだし、長い小説でも読もうかと思い、僕は本の山から『カラマーゾフの兄弟』を手に取った。

 

 

 

 大学に入りたての頃、何か妙な使命感に駆られて古典的名作を買い漁った時期があった。『アンナ・カレーニナ』や『赤と黒』などを買ったが、もちろんそれらは読んでいない。日焼けがひどくて分厚くて上下巻に分かれていて文字が小さい文庫本を読むのにはかなりエネルギーが必要だ。彼らはずっと本棚の肥やしになっている。だが、そんな作品たちの中で読み切ったのが一つある。ドストエフスキーの『罪と罰』だ。

 

 『罪と罰』を読んだのは、周りの人間に対してマウントを取りたいというあさましい気持ちがあったからだ。俺はドストエフスキーを読んだんだぞ…と。当時まだ二十歳にもなっていない僕は授業中にこれ見よがしに読み、授業の合間も読み、家に帰ってからも読み、また次の日も読み、気づいた。これ全然終わらないじゃないかと。ラスコーリニコフはいつまで経ってもぐずぐずしているし、他の登場人物の名前は覚えられないし、段々と読むのが苦痛になってきたが、一度乗りかかった船だからということで無理をして読み進めた。そして結局のところ、何も分からないまま読み終えてしまった。

 

 そんな苦い経験のあるドストエフスキーだが、『カラマーゾフの兄弟』は読まねばならぬと思い、長期休暇ごとに挑んできたが、毎回冒頭50ページ程で挫折してしまっていた。しかし今回はこの10連休を逃すともうまとまった時間は取れない、という焦りが僕を突き動かした。メモを取りながら小説を読む、というのはあまり好きではないのだが今回に関しては仕方ないと腹をくくり、簡易的な人物関係図だけを作りながら読み進めることにした。やはりこれのおかげで読み切れたように思う。ロシア文学は一人に対する名前の呼び方がやたらに多いので逐一メモを確認することでストレスなく読み進めることができた。

 

 

 いざ読み終えて、この小説の感想を語る…というのは本当に難しい。総合小説と呼ばれているように、この長大な物語の中には恋愛、ミステリ、宗教、家族、国家など様々な要素が盛り込まれている。いったいどの面から語り始めればよいのか皆目見当もつかない。ただ一つだけ言えるのは、読み終えたときの感動は計り知れないということだ。凄まじい達成感が心の中を満たして、街中でも自然と顔がにやけてしまう。信号待ちをしているとき、隣の人に「あの、聞いてもらえますか、僕はさっきあの『カラマーゾフの兄弟』を読み切ったんですよ」と話しかけられたらどれだけいいだろうと考えてしまったりする。だがしかし、やはりこの小説自体に意識を向けなおしたとき、自分は何も理解できていないのではないだろうか?という不安に駆られる。そんな不安を拭うためにも、自分が思ったこと、感じたこと,考えたことをここに記していく。

 

 

  まず全体を通してだが、長い。読んでも読んでも読み終わらない。GWもかなりの時間これに費やしたものの、結局3週間近くかかってしまった。しかしかなり細かく章分けされていて視点も変化があるのでダレることは少ない。波に乗ればサクサクと読んでいける。先ほど冒頭50ページ程で挫折したと書いたが、この辺りではカラマーゾフ家の歴史を書いているだけなので仕方がないと思う。今から読み始めようと思っている人は頑張って160ページ目ぐらいまでは読んでほしい。そこらあたりからグッと面白くなってくるはず。ただ読んでいる途中に残りページを数えてしまうのはよくない。僕は何度もやって何度もうんざりしてしまった。

 

 物語の内容としてはタイトル通り、カラマーゾフ家に生まれた三兄弟の話である。まず初めに三兄弟の父親フョードルがいる。フョードルは財産のやりくりなどはうまいが逆に言えばそれだけで、下品で俗物な男である。上巻の前半では彼のなんとも嫌悪感を湧き立たせるエピソードや振る舞いが続いて描写される。言ってほしくないことを絶妙なタイミングでしかもわざと敢えて冗談めかして言い放つ人間がいるが、フョードルはそんな男だ。彼のもとに初めに生まれたのがドミートリィ。彼はフョードルの気質を色濃く受け継いでいて、様々な問題を起こしている。次男は知性的で冷酷なイワン。クールに振舞っているが彼もやはりフョードルの血を継いでいる。末っ子はこの物語の主人公であり敬虔な修道僧のアリョーシャ。彼を軸に様々な神学的、国家的な問題が幾たびも語られる。その他にもフョードルの私生児であると噂されているスメルジャコフやフョードルとドミートリィの間で揺れるグルーシェニカなど様々な人物が登場するが、基本的にカラマーゾフ家の四人を軸にして物語は進む。

 

 僕は小説を読み終えるとそれに対する感想をインターネットで漁ることをよくしている。自分では気づけなかった点や別の解釈を見るのが楽しいからだ。今回の『カラマーゾフの兄弟』においては神学的な部分に対する感想が多く見られた。特に大審問官の章に対する言及が多くあり、これはインターネットにとどまらず様々な評論家がテーマとして取り上げているらしい。この章に対する僕の素直な感想を言うと「よくわからなかった」である。大審問官の章はかなり入り組んだ構造をしていて、集中力が必要だった。というのも、この章ではイワンがアリョーシャに自作の「大審問官」という話を語る。その話の中では大審問官がキリストらしき男を糾弾する。その際に大審問官から語られるのが悪魔がキリストを誘惑した話である。つまり、イワン→大審問官→悪魔という構造になっていてしかもそれがイワンが語っている鍵括弧の中で行われるので少し気が抜くと何が何だか分からなくなってしまう。この辺りを読んでいた時はちょうど帰省する最中だったので断続的に読んでしまい、結局曖昧なまま読み進めてしまったのだ。ここだけでも再読の必要性はあるな、と感じた。

 

 次に恋愛的な面に関して言及する。小説内ではよく「カラマーゾフ的な情欲」というワードが登場する。これの例として分かりやすいのがドミートリィで、彼は許嫁のカテリーナがいるにもかかわらず彼女を捨て、ごくありふれた町人娘であるグルーシェニカに情熱を注ぎこんでしまう。読み始めはこのカテリーナとグルーシェニカを混同してしまって大変だった。この小説における男の書き分けは中々わかりやすいが、女はだいたい似たような口調・風貌で紛らわしいな、と感じた。風貌についてだが、グルーシェニカが黒いショールを肩にかけている描写がかなり良かった。やはり黒というのは女性の美しさを際立たせるものだな。

 恋愛面について言及するはずがかなりわき道にそれてしまった。カラマーゾフ的な感情だが、これは修道僧であるアリョーシャにさえもその炎がちらと見える。だが、この突風のような感情は誰しもが持っているものではないか。愛する人がいるにも関わらず、その人を忘れてしまうような瞬間がありはしないか。裏切ることに対して悦びを感じるような予感を持ってはいないか。カラマーゾフ的な情熱は僕の心のわきに隠れている部分を強く照らし出した。読んでいて何度か自分の浅ましさに思い当たり赤面した。

 

 かなり長い文章になってきた。元が長いので仕方がない。上中下の三冊に分かれている1800ページほどの長大な小説だが、これでも未完という衝撃の事実がある。前書きにはこの小説は第一部と第二部に分かれていて、その間には13年の隔たりがあると書かれてるが、『カラマーゾフの兄弟』で書かれているのはその第一部にあたる部分のみである。前書きにはまた、アリョーシャは奇人ともいえるような活動家である、と書かれているが小説中アリョーシャはいたって真面目で信仰心の篤い青年であり続ける。これに対する考察は至る所でなされているので気になる方は調べてみるといいです。ドストエフスキーの死により永遠の未完となってしまった本作だが、批評家の小林秀雄氏は「およそ続編というものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と述べている。そうだろうか?

 

 この疑問は小説のミステリー的な面を見たときに生じてくる。ネタバレになってしまうが中巻の後半でフョードルは悲惨な死を遂げ、その嫌疑がドミートリィにかかる。ドミートリィに不利な証拠が揃うが、イワンはスメルジャコフの自白を受けることになる。しかし、スメルジャコフは裁判前日に自殺し、真相は誰にも分からないままになってしまう。殺人犯が分からないまま終わるというのはまだいいとして、物語終盤からほのめかされていたドミートリィ脱出計画が結局実行されずに中途半端なまま終わってしまうのはなんとも消化不良だった。恐らくこれは第二部で語られるはずだったのだろう。ミステリやスリル成分が好きな人が読むとこういった点にやはり不満を感じずにはいられないのではないだろうか。

 

 事件の話をしたので裁判の話もついでにしておこう。下巻の半分はドミートリィの裁判の様子がみっちりと語られる。ここで急に現れる弁護人フェチコーウィチと検事イッポリートが大活躍する。特にフェチコーウィチの弁論は非常にロジカルで読んでいるうちになるほど確かにそうだ!という気持ちが湧き出てくる。ここの熱量は本当に素晴らしく、長いこと読んできたかいがあったなと感じた。

 

 未完の話に戻るが、実際のところ第二部が書かれていたとした時に、『カラマーゾフの兄弟』が今の文学における位置に同じようにいるのか、というのは確かに疑問ではある。第二部が第一部と同様の長さを持っていたとするとこの小説は6巻にまで伸びることになる。多分僕なら読まない。という冗談はさておき、第二部がドストエフスキーの宣言通りアリョーシャの活動家としての伝記になるのなら第一部の印象も今とは違ったものになってくるだろう。だが、第二部が補完されることで今よりもさらに高い評価を得られることもまた可能性として否定できない。長々つらつらと書いているが、とにかくこの1800ページを読み切ってもなおまだこの続きが気になるのだ。ミロのヴィーナスのような未完成であるが故の美をこの小説は含んでいる。いやはや、まいった。

 

 

 総合小説、という話を冒頭でしたが、これを言っていたのは村上春樹だ。彼は三つ小説をあげるなら?という問いに対して、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』そしてこの『カラマーゾフの兄弟』をあげている。彼自身も総合小説を目指しているらしく『ねじまき鳥クロニクル』でそのアプローチを試みている。中学生の僕が『ねじまき鳥クロニクル』を読んだときはどうしてこんなに長ったらしいんだ?という感想しか出てこなかったが、『カラマーゾフの兄弟』を読んだ後だと、なるほどこういうことがやりたかったのか、と納得がいった。なのでねじまきに納得がいかなかった人は是非ともカラマーゾフを読むことをオススメする。作者の意図を少しでも理解できるのはなんとも嬉しいものです。

 

 文学の最高傑作は何か、という問いが議論されることがある。僕は以前までこの問いに対し、「まだ読んでないけど多分『カラマーゾフの兄弟』じゃないかな」と答えてきたが、これからは『カラマーゾフの兄弟』だと確信を持って言える。だがその確信も怪しいものだ。まだまだ読めていない名作が星の数ほどある。それを喜びたいところだが、現実問題として自分に残された自由な時間を考えるとそうもいかないらしい。悲しい話だがそこは割り切って上手いことやっていくしかないよな。

 

 

 

 最後にカート・ヴォネガット・ジュニアの代表作『スローターハウス5』から少し引用して終わりとさせていただく。

 

≪人生について知るべきことは、すべてフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中にある、と彼はいうのだった。そしてこう付け加えた、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」≫