ビットとデシベル

 本を買う・読むにあたって、自分の中でのブームというのが存在している。一回生のころはミステリーを中心に読んでいて、二回生ごろにはSFに片足突っ込み、三回生では村上春樹が影響を受けた作品群を読み漁っていた。四回生になった今は何がブームかというと、詩や短歌である。

 

 

 このブームは明らかに生活の変化に起因している。研究室がメインの生活では、とにかく小説を読むような時間が無い。いや、時間はあるのかもしれないが、腰を据えて小説を読むような心の余裕が得られない。けれどもなにかしらの活字には、本には触れておきたい。そこで比較的気軽に読めるような詩や短歌に興味が向き始めたという訳だ。

 

 しかし最近分かってきたが、文字数が少ないからと言って気軽に読めるかというと、全然そんなことは無い。むしろ少ない文字数の中に感情や思想が凝縮されているので、小説の文を読むよりもはるかに神経を使う。でもその緊迫感というようなものを楽しめるようになってきた。そんな気がする。

 

 小説に関してはまぁそれなりに知識というか、何が有名でどういう時代の流れがあるのかとかは分かっているつもりだが、詩や短歌となると本当にさっぱり分からない。大学に入る前に谷川俊太郎寺山修司には触れてはいたが、逆に言うとそれだけしか分からない。なのでまとめサイトなどを見ながら浅い知識を身につけ、気になった詩集・歌集を集める日々を送っている。そんな中で買ったのがフラワーしげるの歌集『ビットとデシベル』。

 

 

 フラワーしげる、という何とも気の抜けたペンネームだがその正体は翻訳家・編集者の西崎憲である。『ヴァージニアウルフ短編集』の翻訳や文学ムック『たべるのがおそい』の編集長を務めている。そんな多岐にわたる活動をしている西崎憲が、フラワーしげるという名義で詠む短歌はかなり定型から外れたものとなっている。

 

「おれか おれはお前の存在しない弟だ ルルとパブロンでできた獣だ」

 これが歌集『ビットとデシベル』の最初の短歌だ。短歌というと5・7・5・7・7というリズムで詠まれることは誰しもが知っていることだと思うが、もうしょっぱなからそんな既成概念をぶち壊すような歌だ。それでもちゃんとリズムがよく、口ずさみたくなる魅力がある。内容も緊張感があって素晴らしい。何年か前、ヴェルファイヤのCMで「君は誰だ」「俺はお前が諦めた全てだ」とゴリラたちが対峙している謎めいたものがあったけれど、それに近いカッコよさを感じる。

 

 

「小さくて速いものが落ちてきてボールとなり運動場となりそのまわりが夏だった」

 イタロ・カルヴィーノの『レ・コスミコミケ』という短編集というか法螺吹き話詰め合わせの中にこんな話がある。かつて、何もかも誰もかもが一点にあった時代、空間の存在が可能だと誰も知らなかった時代に、ある一人の婦人が「ほんのちょっと空間があればみなさんにおいしいスパゲッティをご馳走してあげられるのに!」と言ったために、空間の広がり、いわゆるビックバンが発生した。そんな話を思い出した歌だった。夏も些細な出来事からビッグバンのように広がり始めていくのかもしれない。

 

「楽園に一匹の蛇。蟻塚に一頭の蟻食。詩人に一冊の辞典。」

 僕は創世記などの教養がほとんどなく、今回調べて初めて知ったのですが、蛇はアダムとイブに知恵の実を食べるようそそのかしたといエピソードがあるらしい。蟻塚に一頭の蟻食、という分かりやすい構図から考えるにこれは「かき乱されるもの」と「かき乱すもの」の関係を書いているのかな。となると詩人が辞典によってかき乱されている、という関係になる。この発想が面白い。

 

「あなたが月とよんでいるものはここでは少年とよばれている」

 美しい短歌。ホルヘ・ルイへ・ボルヘスは『バベルの図書館』で「(他の者たちは図書館と呼んでいるが)宇宙は、真ん中に大きな換気孔があり、きわめて低い手すりで囲まれた、不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊で成り立っている。」という非の打ちどころのない完璧な書き出しをしていて、ここでは図書館=宇宙という等式を呼称の違いで生み出している。フラワーしげるは同様の方式で月=少年という等式を短歌の中で作り上げている。この類似性にいたく感動してしまった。

 

 「性器で性器をつらぬける時きみがはなつ音叉のような声の優しさ」

 音叉、という言葉のチョイスが素晴らしいと思う。前半の直接的な表現を音叉という柔らかい例えが包み込んで短歌全体のバランスを取っている、そんな風に思う。

 

「犬はさきに死ぬ みじかい命のかわいい生き物 自分はいつか死ぬ みじかい命のかわいい生き物」

 犬の寿命と人間の寿命は、人の時間間隔で見ればそりゃ大きく異なるものだけれども、もっと後ろに下がってみてみると、それら二つは何ら変わりはないものだと気づかされる歌。

 

「ここから先の歌はくだらないので読む必要はない」

 メタ短歌。自分が読んでいるのが本当に歌集なのか分からなくなる。ちなみに次の歌の前に小さな文字で「前の一首を信じてはいけません」と書いてある。

 

 

 まだまだ好きな短歌はたくさんあったがここまでにしておく。短歌の感想を書くことがこんなにも難しいとは。あとがきも大変良い。ルールを大きく超えていく短歌を生み出す筆者の思いが短いあとがきの中で丁寧につづられていた。

 

 

 

 僕は定型から逸脱したものを好む傾向がある。小説でもメタ的なものが大好きだし、音楽でもプログレッシブロックが好きだ。でもそういう傾向はちょっと考え物だなとは思っている。変わり種を好むにはやはり一度王道の良さを理解することが大切であるというのは何事にでも言えることだ。しかし、短歌においては、上でも書いたようにまだ王道というものが何にあたるのかさっぱり分からない。勉強していかねばならない。