地獄の季節

 気が付くと、前に記事を書いたのが50日も前になっている。この50日の間に僕は、少ない数の詩集を買い、少ない数の詩集を読んだ。最近、詩を焦点に当てているのか、それとも詩を読むこと自体を焦点に当てているのか、分からない日々を過ごしているように感じる。

 

 何をするにも誰かの目を感じている。この文章だって、何人かの友人がみるだろう。はたまた何人かの知らない人がみるだろう。自分のためだけだったものが、自分と他人のためのものになり、そして他人のためのものに移り変わっていく。その推移の中で、諍いが生じたり、耐えきれない人が関係を遮断したりする。怒りをベースにしたカオスな感情が、雨雲のように立ち込めていて、ただそれだけで、何も起こらない。自分の感情に自信が持てない。タイムラインに流れている、数々の正義を代弁した言葉たちに追い詰められていく。詩集の言葉が瞳に写されて、神経を伝って脳に届き、そしてそれらの多くは心に届かず、どこかへと消えていく。

 

 だからこそ、自分が少しでもいいと感じたものに対して正直になる必要がある。とか考えている。馬鹿にするなら好きにしろ。

 

 

 アルチュール・ランボーは詩について関心のある人ならば誰もが知っている名前だと思う。16歳で第一級の詩を生み出し、20歳代前半に詩作を放棄した、彗星のような詩人。今回は小林秀雄の訳で代表作『地獄の季節』を読んだ。

 

 

 難しいことは何も分からないが、この散文詩には緊張感が漂っているように感じる。ギリギリと張り詰めた弓を引き、息もできないような緊迫が続いた後に、ぱっと鋭い矢のような言葉が放たれる。本としては厚みの薄いものだが、凄まじいほどのエネルギーが詰まっている。もちろん、理解できたというか感じとれた部分は全体のほんの一握りといったところだろうが、それだけでも圧倒される。

 

 『地獄の季節』はこんな書き出しから始まる。

〈かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。〉

 かっこいい。それしか言えない。小説顔負けの書き出しだ。到底詩集とは思えないが、実際のところこれはランボー心理的自伝とも言われている。この鋭利な書き出しから始まる序文(?)は次のように締められる。

〈俺の奈落の手帖の目も当てられぬ五、六枚、では、貴方に見ていただく事にしようか。〉

 

 宮沢賢治が〈ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ〉と語るように、ランボーもまた〈深きところより、主よ、俺は阿呆だ。〉と語っている。彼らの生活は正反対ともいえるようなものだろうが、共通して自身を低きところに置いている。文化や時代は違えども、詩人というのはいつも地獄の中に自分を見出しているのか。彼らに比べると僕は地獄とは程遠い、ぬるい空気のしょうもない世界の隅にいるのだなあ。

 

 ランボーの詩を引用するには、僕はあまりに矮小だ。自分の言葉が恥ずかしくて耐えきれない。なので特に好きな詩を二つだけ引用してそれで終わりとする。

 

 

〈また見つかった、 何が、永遠が、 海と溶け合う太陽が。〉

 

〈過ぎ去った事だ。今、俺は美を前にして御辞儀の仕方を心得ている。〉