コンビニ人間

 芥川賞直木賞が発表された。今村夏子の『むらさきのスカートの女』が話題になっていたのはもう半年前のことなのかという驚きがある。芥川賞が発表されるたびに今回は新刊で買って読んでみようかな、と思うのだが毎回お金の無さを言い訳にしてパスしてしまう。そして気づいたら文庫化までしていて、ブックオフの100円棚に並んでいるのを見かけるようになる。その度になんだか不甲斐ない気持ちになってしまう。

 

 ようやく村田沙耶香の『コンビニ人間』を読んだ。七回前の芥川賞受賞作だ。

 

 

 『コンビニ人間』というインパクトのある題は、コンビニで18年間働く主人公、古倉恵子のことを指している。言外の意味を察することができず、コンビニ以外で働こうとしてもうまくいかず、「店員」でいるときだけ社会の歯車として機能できている感覚に満たされる。いわゆる社会不適合者として描かれる古倉と、その周りを取り巻く社会。これだけ書くとありきたりなテーマの小説のように感じる。実際の話、僕は表紙裏のあらすじだけを読んで、この本に対して舐めた態度を取ってしまっていた。

 

 

 読み終えてから、とにかく恐ろしいという感情に心が支配されてしまった。「できるなら再読したくない本」という分類が僕の中にあって、この本はその中に入る。(ちなみに『コンビニ人間』のほかには田中慎弥の『図書準備室』などがこの分類にあたる)どうしてこんなに恐怖を感じたのか?思考するのが不得意な僕にはよく分からない。だけれども分からないなりにも、考えは文字に起こすべきだと思う。こうして自分を鼓舞しないと手が止まってしまう。

 

 死んでいる鳥を可哀そうとも思わず焼き鳥にしようと母に提案したり、喧嘩を止めるためにスコップで頭を殴ったり等、古倉の異常性を描いたエピソードが冒頭にある。あぁ、この人は「こういう人」なのか、と理解し心の中に緊張感が生まれる。しかし古倉は「店員」になることで社会に溶け込み、緊張はある程度緩まる。その弛緩した状態で、ふと自分自身の矛盾に気づく。

 

 就職、結婚、安定した生活、それが普通の人生。そんな言葉に疑問を感じていた。でもそれは、疑問を感じるふりをしているだけだと、この小説に突き付けられた気がする。古倉の異常性を目の当たりにするたびに、古倉の周りにいる「普通の人間」に安心感を感じてしまっていた。ステレオタイプに反抗するポーズを取っておきながらも、いざ異常な人間を前にすると「普通」を求めて周りを見回す。そんな人間だったのだ、僕は。分かってはいたが、こうして文字を通して再認識させられると心がえぐれてしまう。

 

 この物語の途中からはもう一人の狂人が現れる。白羽というこの男はコンビニアルバイトに婚活目的で入り、バイトと客を品定めしては文句を垂れ続ける。この男が現れてからは、一度緩んでいた緊張がまた張り詰めていく。古倉は「普通の人間」になるために白羽をパートナーとして利用しようとし、物語の狂気が加速する。古倉が普通の人間を模倣して作り上げてきた普通の人生が、木の板を割るようにメキメキと音をたてて裂けていく。この過程がとても精神に負荷をかける。そして迎えるラストシーンにはもはやカタルシスを感じる。

 

 

 とにかくもうやめてくれ!と叫びたくなるような小説だった。こんな素晴らしい作品を三年半もスルーしてきた自分が恥ずかしい。