インド夜想曲

 情勢は悪くなる一方だが、新年度を迎えたために研究室にはいかねばならず、暗澹たる思いでデスクについた。けれども同期や先輩、または今日から配属された四回生たちと喋っていると日々の憂鬱が紛れて心はかなり軽くなった。これからはこのバランスをうまくとるべきだと感じる。引きこもっていると本当に心の芯が腐っていく、この二週間ほどで強く実感した。

 

 ただ引きこもっていると時間が大量に余るので読書や映画鑑賞はすこぶる捗る。アントニオ・タブッキの『インド夜想曲』を読んだ。

 

 イタリア文学というとイタロ・カルヴィーノしか知らなかったのだが、アントニオ・タブッキもイタリアの作家で、白水uブックスから何冊か出ている。今の文章を書くにあたって少し調べると、『フーコーの振り子』のウンベルト・エーコや『休戦』のプリーモ・レーヴィもイタリアの作家だった。自分がいかに出身国を意識せずに海外文学に触れているかがよく分かった。反省。話がそれているな。反省。

 

 『インド夜想曲』を何で知ったのかは覚えていないが、なんとなく頭の片隅にあった。この前久しぶりの京都一乗寺のマヤルカ書店を訪れたときに平置きされていたので思わず手に取った。マヤルカ書店はラインナップや内装などとてもすばらしい古本屋さんです。京都で一番好きな本屋かもしれない。恵文社から歩いて3分ほどの距離なのであわせて訪れることをオススメします。また話がそれているな。

 

 『インド夜想曲』のストーリーとしては、失踪した友人を探してインドのあちこちを旅するという感じ。三部構成でそれぞれに四つの章があてられている。夜想曲、というタイトルの通りでほとんどの章における時間設定は夜である。ホテルやバス停、病院などで様々な場所で様々な人間と出会い、夜を過ごし、そして次の夜を迎える。

 

 とっつきのベッドにはひとりの老人が寝ていた。素裸で、がりがりに痩せていた。まるで死んだようにみえたが、目をかっと開けていて、まったく無表情に僕たちを見た。巨大なペニスがくしゃくしゃになって腹の上にあった。……「この人はサードゥです」医者が言った。「彼の生殖器は神に捧げられています。むかしは不妊の女たちにあがめられていましたが、本人は生まれてから一度も、生殖にたずさわったことがないんです」

 

 友人を探すサスペンス・ミステリー要素が駆動力となり、幻想的な夜のインドを駆け巡っていく。一つの章で現れた人が別の章で再び現れることはなく、章が変わるごとに雰囲気も変化する。しかし一定してベースにあるのは旅に対する思いであり、四章冒頭では直接的な言葉となって読者に投げ込まれる。

 

 「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしているのですか」僕のそばのベッドで横になる支度をしていた紳士が言った。

……

 「これに入って旅をしているのではないでしょうか」と僕は言った。

……

 彼が言った「なんて言われました?」

 「肉体のことです」僕がこたえた。「鞄みたいなものではないでしょうか。われわれは自分で自分を運んでいるといった」

 

 いかした問答。七章で出会う少年との会話もとてもいいので、上の引用を読んで心惹かれた人は是非とも読んでみて欲しい。

 

 肝心の友人探しだが、一度読んだだけでは理解が追い付かない結末が待っている。僕自身も読み間違えたかな?と思って読み直し、それでも飲み込めなかったのでネットの海で感想を漁ることで一応の納得を得た。しかし、妙な違和感が残る。理解できたようで、理解できていない感覚。メビウスの輪と表現している人もいて、なかなか的を射ていると思う。これも夜想曲の中の仕掛けであるとしたらアントニオ・タブッキはかなりの策略家だろう。

 

 海外、というものに必要以上の怖れを抱いている僕は、生まれて20と数年の期間で一度も国外に足を踏み入れたことがない。多様な文化と宗教の源流であるインドにはいつかは行かねばならぬ、と思いつつ二の足を踏みつづけている。この本を読んでまたインドへの思いが強まったのだが、しばらくは日本に引きこもらざるをえないし、そうこうしているうちに熱は冷めきってしまうのだろう。くだらない自分。