告白

 生まれも育ちも和歌山で、大学生になってその地を離れたが新しい家も京都で、関西から外で暮らしたことがないのである。だから普段はバリバリの関西弁かというと全然そんなことはない。関西弁と標準語が入り混じったような気色の悪い言葉が口から出る。たまに地元の友達と会うと「喋り方変やで」と指摘され、いかん、故郷の言葉を忘れてしもうとる、となるばかり。何故言葉が混ざったか?恐らくは、大学入りたての頃に仲良くしていた人たちが東の方の人間であったこと、それと自分の和歌山訛りを指摘されることが恥ずかしく、言葉遣いを意識していたことが原因だろう。日に日に関西弁の濃度は薄くなり、独自の気色悪い言語体系が組みあがってしまっていて、ある程度完成したと思っていたのだが、文庫本にして800ページ、京極夏彦かいなと言わんばかりの極厚本である町田康著『告白』が、錆びつき始めていた関西弁の回路に火をつけた。

 

 

 『告白』、というと思い出すのが二回生の春で、この前入学したばっかやのにもう後輩できるんかいな、と思いつつサークルの新歓活動に勤しんでいた頃のこと。見学に来てくれた子が文学部だということで嬉しくなり、小説は好き?最近何読んだ?と軽音サークルらしからぬ問いをしたところ、『告白』を読んでいるとのこと。あぁ、『告白』ってあの映画化した湊かなえの…というと「いえ、町田康です。湊かなえと見せかけて町田康っていうのをやるためにあえて『告白』とだけ言ったのです」と返された。僕は衝撃を受けた。あんな分厚くて難しそうな本を入学したてで読んでいるのかと。こいつには勝てん、と思い、また『告白』を読んでいない自分を恥じた。そしてその恥じた状態で三年余りが過ぎ、ようやく読むに至った。

 

 町田康の作品に触れたのはこれが初めてではなく、半年ほど前に『パンク侍、斬られて候』を読んでいる。この時も感じたが、町田康は言語センスというか、文体の切り替えが天才のそれだと思う。

 

 安政四年 、河内国石川郡赤坂村水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。

 父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。

 あかんではないか。

 

  冒頭から引用した。この文章の流れでいきなり「あかんではないか。」と関西弁のツッコミをいれられるのが町田康の感性によるもので、独特のテンポが生み出されている。小説における三人称視点というのは、登場人物全員の心情を描写できることから神の視点とも呼ばれることがあるが、この『告白』では神などはおらず、語り手・町田康がひょうひょうと言葉を紡いでいく。

 

 もちろん、ぽんぽんと語りを連ねるだけで800ページも続くわけはなく、軽快なストーリの中にふと翳りが見えるときがある。それもそのはずでこの『告白』のテーマは「なぜ人は人を殺すのか」であり、それを前情報として知っている読者は明るい語りの中に影を見つけると、思わずどきりとしてしまう。このスパイスがとてもよく効いていて、初見では怖気づくページ数だが読み始めると一度も飽きが来ることはなかった。

 

 破竹の勢いで読めてしまうのは、会話文によるところもあるだろう。上で引用したようにこれは河内国、今の大阪府東部の話なので登場人物のほとんどがこてこての関西弁である。

 

「どないしょ、誰かきょるぞ」

「どこに来ょんねん」と振り返った駒太郎が赤松銀三の姿を認めて言った。

「あ、あかん」

「なにがあかんね」

「なにがあかんて、赤松のおっさんやんか」

「赤松のおっさんてなんやね」

「おまえ赤松のおっさん知らんのけ」

「知らん」

 

 忘れかけていた関西弁のニュアンス、テンポが自分の中で再現され、頭の中で使われていなかった回路が熱くなるような不思議な感覚に陥った。僕は一度リズムをつかんでしまうと何のひっかかりもなくするすると会話を飲み込めたが、関西弁に触れてこなかった人がこの本を読んだときにどんな感想を抱くのかなと気になるところでもある。

 

 会話に対称的なのが主人公熊太郎の思弁的な頭の中で、河内言葉に変換できない思考が渦巻いている。村の人間は思考を直接言葉にできているのに、俺だけが頭の中で考えすぎてその結果何にも喋れんようになってしまっている…という風に熊太郎は悶々としている。これは自分のことを言っている!と思ってしまい、でも現代社会というか、一般的に大多数の人間はそう思っとるやろと我に返り恥ずかしくなるが、読み続けているとやっぱりこの思考回路は自分とそっくりやなと考えてしまう。本から離れてもしばらくは関西弁ベースの言葉で思考が進み、これは自分の考えなんか?それとも町田康の語りによって誘発された自分とは別の考えなんか?とエセ思弁を繰り広げてしまい、またまた恥じらいにより俯いてしまう。

 

 熊太郎の思弁的思考は止まることを知らず、数々の事件に巻き込まれつつ内省を繰り返し、加速し、カオスとなって、殺人へと舵を切るまでになる。殺人による開放・カタルシスがあって終わりかと思っていたが、そうではなく、警官に追われる身となってからも熊太郎は内省を強いられる。殺人による精神的負荷がかかった後の思考は虚脱的な部分が大きく、読んでいるこちらも気分が沈む。そして思考の果てに自らの「告白」を述べてその身を終えることになるが、これにはカタルシスなんて清々しい言葉は似合わない。心に深い爪痕が残り、その爪痕にできた空間の感触がやけに生々しく重たい。

 

 

 すごい作品を読んだ。これに尽きる。数十年後、日本の文学を語るうえで必ず現れる作品だと思う。心の余裕を削る言葉が溢れ、なにかと考えさせられることが多いこの瞬間にこの作品を読むことができてよかったと思う。