ゴドーを待ちながら

 自宅待機の要請が大学から出た。七畳半の部屋で一日の大半を過ごしている。時間は膨大にあるように思えるが、その時間を活かし切る余裕が今の僕にはない。でもせっかくなんだから、と思って無理やり本を開く。この時期は何を読んでも今の現実に重ね合わせてしまう。陳腐な思考に拍車がかかる。こんなことをしているからいつまでたっても何者にもなれないのだと思う。分かってはいるがこれで精一杯だ。本当か?もうやめよう。

 

 今、不条理モノを読んでブログを書くのは分かり易すぎて嫌だな、と思う自分。いったい誰に馬鹿にされているんだ?頭の中に誰かがいる。自分以外ありえない。自分こそが一番近い他人とはこういうことか?この考えは浅はかか?文章を書く景気付けとして酒を飲んだのが良くなかった。思考が辿れない。サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を読んだ。

 

 不条理モノというと一般的にはカフカが思い浮かぶかもしれない。あるいは、カミュかもしれない。それともドストエフスキー?悲しいことにこれらの作家の作品にほとんど触れられていない。憂鬱そうで、そのうえ長いからだ。その点『ゴドーを待ちながら』は読みやすい。なぜか?戯曲だからだ。

 

 演劇を見ずに戯曲を語るのは如何なるものか、と思いもするがそれは脇に置いておいて話を進める。『ゴドーを待ちながら』はそのタイトルの通りで、二人の男、エストラゴンとヴラジーミルが一本の枯れ木の下でゴドーを待っている。ひたすらゴドーを待っている。ただただゴドーを待っている。

 

エストラゴン さあ、もう行こう。

ヴラジーミル だめだよ。

エストラゴン なぜさ?

ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。

エストラゴン ああそうか。

 

 当然のようにゴドーはやって来ない。代わりにポッツォとその荷物持ちのラッキーが出てくる。何かが起こるかと思いきや、特に何も変わらずポッツォとラッキーは退場し、ゴドーの使いである男の子がやってきて「今日はゴドーさんは来ません。明日は来るそうです」と伝える。夜になり、二人は「もう行こうか」と話し合い、そしてどこへも行かない。こうして第一幕は終わる。

 

 第二幕では枯れ木に葉がついている。ポッツォは目が見えなくなっており、ラッキーは喋れなくなっている。不可解な出来事が連続しているが、やはり二人はゴドーを待つ。ひたすら待つ。男の子がやってくる。「今日はゴドーさんは来ません。明日は来るそうです」「もう行こうか」そして二人はどこへもいかない…。

 

 読みやすいと上で述べたが、正直なことを言うとこの話は結構退屈してしまう。エストラゴンとヴラジーミルの話は堂々巡りだし、ポッツォの話も意図を掴みにくいし、何よりゴドーが来ない。それでも読み終えてからずっとこの物語のことを考えてしまう。頻出する靴が脱げないという下りは何のメタファーなのか?枯れ木に葉がついているのはどう言う意味なのか?ヴラジーミルの頻尿は何のメタファーか?ポッツォとラッキーはなぜ機能を失ったのか?男の子はなぜヴラジーミルのことを覚えていないのか?ゴドーとは誰なのか?

 

ヴラジーミル 何を言っているのかな、あの声たちは?

エストラゴン 自分の一生を話している。

ヴラジーミル 生きたいというだけじゃ満足できない。

エストラゴン 生きたってことをしゃべらなければ。

ヴラジーミル 死んだだけじゃ足りない。

エストラゴン ああ足りない。

 

 奇妙なことが多発して、登場人物が否応なく振り回される。それが不条理のセオリーだと思っていたが、不条理演劇の傑作とされるこの戯曲では、振り回されるなんてことはなく、ただただ待たされる、それに終始していた。そもそもセオリーがそんなものだったら、あらゆる文学作品が当てはまってしまうな。不条理に対する認識が甘かった。もっと勉強していかなきゃいけないな。

 

 「ゴドーとはいったい何者なのですか?」という問いに対してサミュエル・ベケットは「そんなものは分からない。分かっていたら物語の初めに書いているだろう」と答えたらしい。すべての謎は読み手に投げられ、70年近く読み手の間で曖昧かつ不明瞭なキャッチボールが繰り広げられている。そしてこのキャッチボールは今後も続いていく。僕もどこかへ投げなければいけない。誰かに届けられると良いのだけれど。