他人の顔

 高校生の頃、僕はいわゆる理数科コースに所属していた。そのコースには男女合わせて80人ほどでクラスは2つしかない。だから三年間同じクラスで高校生活を共にした子が何人かいた。その何人かの中で、少し変わった女の子がいた。

 

 その子は理数科コースにいる女子の中で一番背が低く、しかし一番大人びていた。女子は恋愛ごとやら女子同士の揉め事やらが起こると彼女の席に行き、相談を受けていた。傍目には適当に相槌を打っているだけに見えるのだが、相談を持ちかけた子は皆スッキリした顔でその子に礼を言っていた。(あとで聞くと本当に適当な返事だったらしい)

 大人びて見えるのは、彼女の言動・行動によるもので、キャーキャー言わずいつも落ち着きのある振る舞いをしていた。恋愛においても、当時五つほど離れた大学生(社会人だったかもしれない)と付き合っていた。恋愛経験の乏しい僕はそれを聞いていたく衝撃を受けたものだった。

 

 勉強はそこまで好きではないらしく、授業中はいつも本を開いていた。当時僕はサブカルの世界に片足の指先を突っ込んではしゃぎ回っていたのだが、いつの間にか彼女はそんな僕におすすめの本を定期的に教えてくれる存在となっていた。ちょっと変わった小説を教えてくれて、それに僕が喜んでいると、彼女は「じゃあこれも好きだと思う」と言ってある文庫本を渡してくれた。それが安部公房の『箱男』で、僕の一つの転換期となった小説だった。

 

 

 安部公房は僕が村上春樹の次に好きな小説家だ。執拗なまでの科学的描写や、不条理極まりない世界観、複雑な文章構成とそれに基づくメタ的な展開。僕がメタフィクションを初めて意識したのが『箱男』で、読んだときの脳が痺れる感覚が忘れられない。正直な話、『箱男』は読後何がなんだったのか覚えていないほど複雑怪奇な小説なのだが、比較的初期の『砂の女』などはストーリーがはっきりしていてまだ読みやすい。今回は『砂の女』に始まる失踪三部作の二作目『他人の顔』を読んだ。

 

 液体空気の爆発により、顔を失ってしまった男がリアルな顔の仮面を作成し、自らの妻を誘惑する…というのが『他人の顔』のストーリである。登場人物は少なく、全編にわたって男の思考実験が記録されている。顔と人間、顔と社会、それらの関係について徹底的に考察しており、安部公房らしい文章がページを埋め尽くしている。顔の良し悪しとは?顔が人間を決定づけるのか?他人の顔を仮面としてつけたとき自分は自分と言えるのか…?

 

 安部公房の小説には「見る/見られる」のテーマが頻出しているように思う。『他人の顔』では仮面を、『箱男』では段ボール箱を被り、一枚フィルターを通して見る/見られることで外見と内面の関係について掘り下げている。そこには現在頻繁に論争のキーワードとなっている「ルッキズム」の観点につながるものがあり、安部公房の先見性が感じられる。というのは少し贔屓が入りすぎている気がするな。作品中ではそんな観点に踏み込んである種の回答を導き出すのに躍起になっているわけではなく、あくまで小説の駆動力として用いている感覚がある。『他人の顔』も思考実験の果てに展開があり、小説然とした終わり方をする。それを純粋に楽しめばいいはずなのに「ルッキズム」なんて言葉を安易に持ち出してしまったのは、僕の考えの浅さと、ここ最近の生活で余裕が削られているせいだと、苦し紛れの言い訳が出てくる。

 

 もう尻尾を出してしまったので、いっそのこと言及してしまう。人間というのは内面と外見を切り離せるものではなく、それら二つは強い相互作用の関係にある。人が「ルッキズム」にとらわれるのも当たり前のことだが、そこで美のベクトルを新たに定義していくのが理性的な方法の一つだと思う。既存の価値観に対して新しい価値観を定めることで対抗する。これが理想だと思うが、いつの間にか手段が「既存の価値観の破壊」にすり替わっていることがある(もちろん自分の中でも)。これをひどく加速させているのがSNSの存在で、抑揚・ニュアンスが全て削り落とされた電子化された言葉、そして匿名性が論争に悪い影響を与えている。これが一昔前の2ちゃんねるなどの掲示板ならば、闇の中から届く声、ほどの感覚で対応できたであろうが、今はアカウントというシステムがあり、人の形をもったイメージから声が投げられるので、そこに敵を投影しやすくなってしまっている。やはり人間は直接あって話し合うのが一番だが、それが事実上禁止されている今の状況が人間をよくない方向に導いている。そしてそれは僕も同じことで、なんとか踏みとどまっているが、限界が近い。

 

 

 電子化された言葉と匿名性という指摘はブーメランとしてこの落書きみたいな主張に突き刺さる。もし安部公房SNSの時代に生きていたら喜んで小説の題材にしていたと思う。僕のアカウントから発信される言葉は本当に僕の言葉なのだろうか?頭の中で思考が渦巻き、行き場もなく消えていき、吐き気だけが残る。今度から安部公房の小説は心に余裕があるときだけ読むことにしよう。

 

 

 

 僕に安部公房を教えてくれた彼女にたまたま連絡する機会があったのだが、その時彼女は東京の専門学校を中退して大阪でフリーターをしていると言っていた。彼女らしいなと思った。それから三年が経っているが、元気だろうか。また小説の話ができるといいのだが。