藤富保男詩集

「でたらめなんて、かんたんだよ」

きみは、いった。

「じゃあ、しゃべってみて」

「きゅうにいわれても」

きみは、くちを、とがらした。「ちゃんと考えたらできるけど」

「ほら」

ぼくは、いった。「でたらめって、ちゃんと考えなきゃできないんだ」

 

 

 言葉を使うのは難しい。日に日にその思いが強くなる。直接会って話し合えばすんなりいくのに、それもできない毎日で、人々は仕方なく画面の上で指をスライドさせて言葉を電子信号に変換している。友達や他人からは、自身の言葉はその形でしか見てもらえない。あることを主張すると、それがそのまま自分の形になってひとりでに歩いていく。本当の気持ちじゃなくても、本当の気持ちであっても。やがて自分のところに言葉が帰ってくる。自分に似た、自分ではない言葉が。この言葉は、人にどんな気持ちを抱かせてしまったのだろう?それを考えるのが怖くて、発信することを控えるようになった。自分から逃げている。どこに行けるわけでもないのに。

 

 小説を読んでも、目が文字の上を滑っていく。何も頭に入らない。こんな時は詩を読むのが良かったのだっけな、と思って、これまで気になってはいたが手が出せずにいた詩集を思い切って購入してみる。そのうちの一つが『藤富保男詩集』だ。

 

 

 冒頭に引用したのは斉藤倫の『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』の一部分だ。この本は、おとなの「ぼく」が子どもの「きみ」に詩を教える、ただそれだけの物語だが、すごく心に残るものがあってお気に入りの一冊だ。もう何回も読み返している。

 

 第一章において、「きみ」が「ぼく」の家にやってきて先生に叱られたという。言葉遣いがなっていないと。では正しい言葉とは何か?それを考えるために「ぼく」は藤富保男の詩を紹介する。

 

 あの

 

あなたも笑ったし

ぼくも笑わなかった

 

のであった

のであったり

世界は何を待っているか

と云う人がいて

何だかさっぱりわからない人もいて

 

そして

待っていたのである

 

のではなかったり

 

のであったりした

 

のであった

 

ところで

実際は

極端に

巨大に

その上なんでもなく

横か

縦を振り向いて

笑ってしまった

 

そして

そうであった

とか

ねじった

とか

 

なんだか

 

そうではないライオン

である

 

ということにしてしまった

 

 

 このでたらめな詩を初めて見た時に、なんてすごいんだろうと思った。まるで重力の向きが切り替わるように言葉の世界が展開されていく。天才の所業やもしれん、と思い、今回詩集を改めて読んで、天才であることを確信した。

 

 藤富保男の詩は、次に何がくるのかさっぱり予想できない。新たなイメージを繰り出すだけならば珍しいことでもないが、この男は認識の方向を曲げる言葉遣いで、これまで見てきたイメージに新しい側面を追加する。そしてそれによってイメージの全体像が見えてくる、と云うわけではなく、結局のところ何がなんだったのか分からないまま詩は途切れる。

 

 どうにかしてる何か

 

非常に背の高い女の

そばに

 

非常に平たい犬がいて

 

話はちがうが

近頃は幸福でも

そうでもあって

 

すっかりそうである

 

庭園にはパラシュートが

ややともすると

やるせないように咲き

 

そしてから

そしてまた

また

あなたは

僕がどの位好きだか

 

そのかわり

結局

雪になってしまって

から

降り止むまで

 

 藤富保男は2017年になくなった。この詩集は発行が1973年であるので、今から考えると初期詩集ということになるのかもしれない。七つの詩集から収録されていて、上の二つは二作目の『8月の何か』からである。初めの方の詩集は短い詩ばかりなのだが、後半になると数ページにまたがるような長い詩も現れる。僕が一番気に入ったのは五作目『魔法の家』だった。

 

 六

 

六時に女に会う

女と会う

一人の女に

一人の六時に

一人で六時のところに立って

 

六時だけが立って

誰もいない 

 

 非

 

非常に静かな

一分間

 

葡萄酒の上には

雲が浮かんでいた

 

ぼくには

 

犬は腕組みをしている

 

 まだまだお気に入りの詩はあるが、これまでにしておく。てきぱきと言葉の構造を抜き取り、組み替え、追加し、出来上がった詩をさっと差し出して、知らん顔してどこかへ去っていく。そんな詩集だと感じた。詩人論を書いている鍵谷幸信はこの詩人のことを「コトバの駐車違反者」だと言っている。言い得て妙だ。

 

 

 詩を書くことは、そのままだと消えていってしまうものをすくいとること、かもしれないと『ぼくがゆびを…』の中で書かれていた。僕はそんなものを、いったいいくつ見捨ててきてしまったのだろう。そんなことを考えてもしょうがないとは分かっているが認めたくはない。この文章で、何か少しでもすくえている事を祈る。