山月記・李陵

 ひどい天気が続いている。研究室にいくだけでびしょ濡れになり、乾く頃にはもう帰る時間で、またびしょ濡れになりながらとぼとぼ歩く。家に着いて、テレビをつけると氾濫した河川の映像が流れていて、何県のどこそこでは何人亡くなったというテロップが常に表示されている。ひどい天気だ。

 

 この天気の下で社会は相変わらず激動している。政治的なものから芸能ゴシップに至るまで、すごい速さで表示されてはあらゆる意見が飛び交い、次の日には次の話題が提供される。インターネットではそれらの話題に対し、いかにスマートで洗練されたコメントをするか、というゲームが行われているように思える。もちろん、僕が得ている情報には大きな偏りがあるだろう。でも少なくとも僕の立ち位置からは、世間はそう見える。みんな狂ったように早打ちゲームをしている。僕は思考の幅・深さともに足りていないし、まず速度が致命的に遅い(この記事を書くと決めてから一週間以上経っている)。なので周りに圧倒されて、ここ一ヶ月ほどは自分の考えを言葉にすることの自信が無くなり、沈黙していた。

 

 沈黙していたのには他にも様々な理由があるが、その中で大きなものとしてはある言葉に心が支配されていたことがあげられる。それは「深い川は静かに流れる」というありふれた言葉である。僕はそのありふれた言葉に今更ながらハッとさせられて、無闇に発言しないようになった。この激動の日々の中においても、僕は深い川でありたいと願ってのことだった。しかし、静かであるということは深いということにはならない。当たり前だ。僕は阿呆だった。僕がやっていたのは停滞であった。考えることの放棄だった。深い川になるためには、まず水を流さなければならない。水が流れ、土が削られることで川は深くなる。たとえうるさくても、水を流すところから始めなければならない。しかし、むやみやたらに水を流せばいいという訳でもなく、適切な勢いで、適切な量を流さなければならない。そこが難しいなぁと考えながら、大学の行き帰りをとぼとぼ歩いている。

 

 

 適切な勢い、適切な量の極致である文章を沈黙の中で読んだ。中島敦の文章だ。

 

 今回初めて知ったのだが、中島敦は短命であったらしい。作品数も少なく、ほとんどが短編である。今回は岩波文庫で読んだのだが、これには十一遍収録されている。一作目が『李陵』なのだが、この作品から圧倒された。

 

 漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向った。阿爾泰山脈の東南端が戈壁砂漠に没せんとする辺の磽确たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い。

 

 凄まじく強度が高い、と感じた。パキッとした文体で淡々と話が紡がれていく。無表情な展開が続くかと思いきや、「朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い。」という文章で一気に物寂しさが胸に迫る。こんな切れ味の鋭い文章に触れた時は、目を見開くのもそうなのだが、それ以上に頭の中のこれまで閉じていた門が開け放たれる。その門を通ってその後の文章が雪崩れ込んでくる。しかし音はほとんど立たない。中島敦の文章には僕の経験からは測り取れないほど深い川が流れている。

 

 上に引用したように、中島敦の作品の多くは中国古典を題材にしたものが多い。背景を知らないと読み取るのは難しいように思われるかもしれないが、そんなことは気にならないほど中島敦の文章は綺麗で、それでいて面白い。中国古典もの以外にも、南洋ものと言える作品があり、岩波文庫に収録されている作品では『環礁』がそれに当たる。

 

 夕方、私は独り渚を歩いた。頭上には亭々たる椰子木が大きく葉扇を動かしながら、太平洋の風に鳴っていた。潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右を頻りに陽炎のような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。蟹なのである。灰色とも白とも淡褐色ともつかない・砂とほとんど見分けの付かない・ちょっと蟬の脱け殻のような感じの・小さな蟹が無数に逃げ走るのである。

 

 美しい。南洋ものの作品は、中島敦自身の旅行経験によって書かれたもので、実際に見た景色を言葉に落とし込んでいるのだろう。明らかに日本とは異なる色彩や温度・湿度がありありと再現される。しかし、『環礁』には「自分の言葉の描写力が実際の美の十分の一をも伝え得ないことが自ら腹立たしく思われる」と書かれている。この言葉を前に僕は、ただただ恥入る事しかできない。

 

 記事を書くにあたって、読み返したり、引用したりしていると、その言葉の完成度に叩きのめされてしまって、もうこれ以上自分の拙い言葉を連ねるのが耐え難くなる。中島敦の良さを千分の一も伝えられないまま手をあげてしまうことになってしまった。もしあなたが、中島敦は『山月記』を高校で読まされた事しか無い、というのであれば是非他の作品も読んで欲しい。もちろん『山月記』を読み返すのも良い。教科書に載るような作品なのでやはり文章の綺麗さはピカイチだ。しかし他の作品も負けず劣らず美しいので、絶対に読んで損はしないと思う。とにかく読んでくれ。

 

 

 

 数日前にしれっとブログの名前を変えた。元は「駄文書きには最適な日々」だった。これはサリンジャーの作品をもじった円城塔の作品をもじった名前だったのだが、最近あまり気が乗らなくなったので「枕元文庫」に改名した。僕の枕元には、ちょうど文庫本を並べられるほどのスペースがあり、お気に入りの本たちが並んでいる。そこを指す言葉を、新しいブログ名とした。もちろん、『山月記・李陵』もそこに入っている。