お嬢さん放浪記

 炎天下の街を歩いていると、マスクの中で玉のような汗がすぐさま噴き出てくるのがわかる。実に耐え難い。開かれた空間だし、半径2メートル圏内に人はいないし、別にちょっとぐらいいいだろうとマスクをずらす。マスク越しでは感じられなかった、夏の匂いがすぐさま鼻腔を占領する。思わずため息がでる。時たますれ違う人も、同じようにマスクをずらしながら、あるいは握り締めながら、強い日差しと人の視線を避けるように歩いている。このままでは、色んな組織、色んな集団、色んな人々に限界がくるのも近いと感じる。でも今のところ、僕にできるのは、ずらしたマスクを付け直すことだけだ。

 

 

 この極めて歪な状況に触発されて、僕の精神状態は相変わらず低迷している。ひどい出来事に、ひどい対応、それを非難するひどい言葉の数々。見なければいい、というのが真っ当な意見だが、自分が気に食わない言葉をシャットアウトし続けて、自分にとって気分のいい環境を作り上げて、そこで組み立てた自分の考え、というものに満足してしまうのは危険ではないだろうか?とも思う。僕の言いたいことが伝わるだろうか?これが僕の言いたいことなのだろうか?少しでも気を緩めると頭の中が混乱する。他人が信じられなくなる。みんなに笑われている気がする。頭の中で誰かが僕を馬鹿にしている。もう少し他人を信じる力があれば、気持ちは楽なのだろうが、激動のなかで余力はどんどん削られている。

 

 犬養道子の『お嬢さん放浪記』を読んだ。この本を読むことによって、他人を信じる力が少し回復したような気がする。

 

 放浪記、とあるように、これは犬養道子が1948年から1957年にかけてアメリカとヨーロッパ各地を旅したときの記録である。犬養と聞くと、五・一五事件で殺害された首相が思い起こされるが、犬養道子はその首相の孫であり、家柄を考えると「お嬢さん」ということになる。しかし彼女は、自らのお嬢さん育ちに一本筋金を入れてもらいたいと考え、親からの経済的な援助に頼ることなくアメリカ・ヨーロッパへと単身で突撃していく。とにかくすこぶるパワフルな人物だ。

 

 すでに戦時中から、私は自分が井の中の蛙のように実力も何もないくせに、足が大地についてもいないくせに、とかく自らをよしとする傾向のあるのに気づいておそろしかった。そして、自分と、自分の生活の革新ということが何をおいても第一に大切だと、若さの情熱からいちずに思いこんだ。そしてグレイルのようなところで、自分の足りなさと自分の可能性とを発見するのが一番だと考えたのである。

 

(グレイル:社会との紐帯においてキリスト者としての自らを浄めることを目的とした運動団体)

 

 そのパワフルさを生かして、異邦人でありながらもずんずんとコミュニティに入り込み、あらゆる事業を発案し成功に納めていく。アメリカでは大量に余っていたパラシュートの紐でベルトを編んでお金稼ぎをしたり、パリでは貧しい学生たちの交流の場を作るために古城を借りてきたりもする。このように並べ立てると、いかにもパワフル超人という感じだが、彼女自身は身体がそこまで強くなく、頻繁に病に倒れたりする。しかしその度に、彼女の周りにいる心優しい人々が救いの手を差し伸べる。

 

 『お嬢さん放浪記』は十一のエピソードから構成されているが、それら全てに「いい人」がわんさか出てくる。もちろん、日本と比べて海外は精神的に発達している、と言いたい訳ではない。海外にも「悪い人」は「いい人」と同じくらいいるだろう。でも、「いい人」はどの時代・どの国においても確実にいるのだと再確認できる。そんなエピソードがこの本には並んでいる。

 

「そう、それは何よりです」とブルナフさんは微笑んだ。「私は確信していますが、人間を超えた偉大なるものの前に額づいて、その偉大なるものの前に、たがいが兄弟姉妹であることを意識することこそ、我々の時代に一ばん必要なのです。それだけが、友情のパスポートになるのです」

 

 

 異国の地で旅をするということは、自ずとそこにいる人々と自らの内面に触れるということに繋がる。この本で見られる言葉はもう50年以上前のものだが、それでも今なお変わらないものが感じ取れる。いい本を読んだな、とシンプルに思った。

 

 

 

 せっかくの盆休みなのに帰省もかなわないので、色んな人と会う約束をつけた。約束をしただけでかなり前向きな気持ちになれた。こうやって、他人を信じる力を失わないようにバランスをとっていかなきゃな、と思う。