吾輩は猫である

 伸びた髪の毛が視界を遮って邪魔くさいので切ることにした。しかしいつも行っている店は臨時休業しているらしい。個人経営なので店主が体調を崩してしまうとどうしようもない。仕方なく新しい店を探すことにした。こういう時に生来の優柔不断が発揮されるのは明らかだったので、何も考えずに近くの店へ行くことにした。

 

 いざ髪を切られるとなると、目のやり場に困る。まっすぐ前を見つめると、ケープから頭だけが出ている自分と見つめ合うことになる。それはなんともむず痒いので、視線は鏡周辺をウロウロと彷徨う。シャンプーの広告などに目を通していると、部屋の奥にペット用のケージが見えた。犬だな、となぜか直感的に思った。美容師は犬を飼っている、という謎の偏見が僕の中にある。僕は犬が苦手なので、身体が強張った。ケージの方に意識を向けつつ、されるがままにシャンプーで頭を洗われていると、「にゃあ」という鳴き声が聞こえた。著しく脱力した。後で見せてもらったのだが、ケージにいたのは非常に可愛らしい黒猫だった。

 

 そんな出来事があった前後に『吾輩は猫である』を読んだ。

 

 日本文学の中で、おそらく一番有名な書き出しをするこの小説だが、意外と最後まで読んだ人は少ないんじゃないかと思う。こんなにライトな書き出しをしておきながら、文庫にして約500ページもある。軽い気持ちで読むにはちょっと重たいように感じられる。僕自身も確か中学生の頃に挑戦した記憶があるが、読み切ることはできなかった。しかし今回ふと思い立って読み始めてみると、スルスル読み進められた。自分のちょっとした成長を感じた。

 

 日本で一番有名な名無しの猫は、初めは「薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた」のだが、やがて珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)という英語教師の家で飼われることになる。飼われる、というよりは居着く、という表現の方が正しい気もする。何しろ名前をもらわないのだし、餌も猫用のものが用意される訳ではなく、珍野一家の残飯を漁って腹を満たしている。しかしそれに不満げはなく、自由気ままに苦沙弥邸を訪れる人々を観察しては思弁をこねくり回している。この思弁は基本的に面白いのだが、いかんせん長いし周りくどい。解説の伊藤整も冗長だと指摘している。

 

主人は何に寄らずわからぬものを難有がる癖を有している。これはあながち主人に限ったことでもなかろう。分らぬところには馬鹿にはできないものが潜伏して、測るべからざる辺には何だか気高い心持が起こるものだ。それだから俗人はわからぬ事をわかった様に吹聴するにも係らず、学者はわかった事をわからぬ様に講釈する。大学の講義でもわからん事を喋舌る人は評判がよくってわかる事を説明する人は人望がないのでもよく知れる。

 

 「吾輩」は猫らしくネズミを追い回したり近所の猫と情報交換したりするのかというと、そんなことはほとんどせずにひたすら人間観察をしている。苦沙弥邸には美学者の迷亭や、物理学者の寒月、新体詩人の東風、哲学者の独仙など様々な人物が代わる代わる訪れては苦沙弥先生と下らない話をしていく。この小説ではただただ延々とそれが続く。特に大きなストーリーラインなどはなく、だらだらと人間の下らない話を猫が面白がって聞いている。それだけなのに、500ページも読ませられるのは夏目漱石の技量という他ない。

 

ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬を削ってつかみ合い、いがみ合い、罵り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞の様に崩れたり、持ち上がったり、持ち上がったり、崩れたりして暮らして行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理屈がわかって、分別のある奴は却って邪魔になるから、瘋癲院というものを作って、ここへ押し込めて出られない様にするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものは却って気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかもし知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用して多くの小気狂を使役して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分からなくなった。

 

 これを引用している時に思い当たったのだが、中学生の頃の僕は「作者がふざけている」という意識を持つことに不慣れだったのかもしれない。かの有名な夏目漱石がまさかちゃんちゃらおかしい文章を書くなんて思いもしなかったのだろう。色んな人の文章を齧ってきた今なら分かるが、『吾輩は猫である』では夏目漱石はふざけ倒している。これが人の形をもって行われているといい気がしない人は多いだろうが、猫がしゃべくっているのだと思うと許せてしまう。そこにバランス感覚の良さというものを感じる。

 

 最後の章では上に挙げた個性豊かな登場人物たちが一同に介していて、大円団な感じがある。さて猫はというと、ちょっとした悲劇を迎える。これはあまりにも有名な話だと思うが、一応ネタバレを気にする人のために詳細は伏せておく。なんともあっけない終わり方だが、最後の最後まで夏目漱石のおふざけが炸裂していて心地よい読了感だった。なるほどこれは確かに名作だな、と2020年にもなってようやく確認できた。

 

 

 和歌山の実家では猫を二匹飼っている。正月以来帰省できていないので、半年以上も猫たちの顔を見れていない。猫たちも、人間観察の対象が少ないためにさぞかし暇をしているだろう。