『吾輩は猫である』殺人事件

 こんな夢を見た。

 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく指して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。 

 

 

 世間一般的に今は盆休みなので、研究室もしばらく休みだ。しかしこんな世の中なので帰省も見送った。ただただ、部屋で本を読んだり映画を観たりしている。一日のうちに決まった用事がないと、生活リズムは即座に乱れる。就寝・起床時間ともにバラバラの日々で、眠りも浅いため、夢をよく見るようになった。親しい人たちによって、僕の不甲斐なさが非難される夢を見ることが多い。結構寝覚めが悪いし、現実世界でも引きずってしまうので、なんとか生活リズムを元に戻して夢見を良くしたいと思っている。

 

 前回紹介したように、『吾輩は猫である』(以下『猫』と省略)をようやく読んだので、奥泉光の『『吾輩は猫である』殺人事件』(以下『猫殺人事件』と省略)もようやく読むことができた。

 

 ある本を読むためにまず別の本を読まねばならない、ということが多々ある。『犬は勘定に入れません』を読むためには『ボートの三人男』を読まないといけないだとか、『六枚のとんかつ』と『占星術殺人事件』なら後者を先に読んでおいた方がいいだとか、そういった「本を読む順番」が存在することがある。まぁ別に順番に逆らって読んでもいいのだが、本読みたちが順番を勧めるのにはそれなりの理由があってのことなので、素直に従うのが良いのだろう。しかしそういった順番が決められているものはその分ハードルが上がるのも事実だ。

 

 今回は盆休みで時間があり余っていたので、順番通りに連続して読むことができた。まずはそのことを踏まえての感想だが、『猫』と『猫殺人事件』は間髪入れずに連続して読むべきだ。この理由について述べていく。

 

 『猫殺人事件』はその名の通り、『猫』のパロディ小説だ。著者の奥泉光夏目漱石の影響を強く受けており、この『猫殺人事件』では漱石の文体をかなりの高精度でコピーしていて、『猫』同様に名無しの猫が喋り倒している。名無しの猫、と書いたが『猫』と『猫殺人事件』に出てくる語り手は「同一猫」である。『猫』の後日談として『猫殺人事件』は始まり、名無しの猫は何故か日本を離れて上海にいる。そして飼い主である苦沙弥先生は何故か殺されてしまう。しかも密室で。コテコテのミステリーだ。

 

 名無し君がこの殺人事件を推理していくのか、と思いきやそうではなく、名無し君の周りにいる猫たちが面白がって推理合戦を始める。推理をするのは地元猫の「虎君」、シャム猫の「伯爵」、隻眼の黒猫の「将軍」、そしてイギリスからやってきた「ホームズ」の四猫である(もちろん助手猫の「ワトソン」もいる)。さて、推理をするには情報が必要で、名無し君は苦沙弥邸にいた頃の記憶を四猫に語ることになる。つまり、『猫』で書かれたことをそっくりそのまま語る、という構図になる訳で、うまい構成になっているなぁと感心した。

 

 四猫は『猫』の情報を元に犯人当てを行うので、必然的に『猫』での描写が伏線となる。この四猫の推理を聞いていると、『猫』のふざけ倒していた描写が、何だか不穏な描写のように思えて、迷亭や寒月はこの頃から苦沙弥先生の命を狙っていたのか…?という気分になる。別の本によってある本の印象が変わるといった経験はなかなか無いので新鮮だった。

 

 迷亭や寒月、と述べたが、『猫』での登場人物たちも何故か上海にきていることが後半で明らかになって、ここから物語は一気に加速する。そこまでずっと安楽椅子探偵よろしくな推理合戦だったのだが、途中から潜入捜査も行うようになり、スリル要素が追加される。物語がどんどん確信に迫っていくとミステリーからSFに発展し、そして最後には…といった感じで、息つく暇も無い作品だった。素直な感想を言うと、めちゃくちゃ面白かった。

 

 以上に述べてきたように、『猫殺人事件』は『猫』という土台の上で大暴れする作品なので、『猫』の記憶が鮮明にあるうちに読んだ方が良いと思われる。しかし『猫殺人事件』は文庫本で600ページ超えであり、『猫』と合わせると1000ページを超えることになってしまうので、時間がたっぷりあるときに読むことをオススメする。

 

 

 冒頭で引用したのは、夏目漱石の『夢十夜』だ。この作品も『猫殺人事件』に大きく関わってくる。ならばこれも先に読んでおく必要があるのかという話になるが、必須ではないと思う。僕自身も記憶があやふやだったので、『猫殺人事件』を読んでから『夢十夜』を読み直したのだが、その文章の美しさに圧倒された。他の未読作品もこれを機に読んでいきたいな、と感じた。