闘争領域の拡大

 「小さい頃は神様がいて/不思議に夢をかなえてくれた」というのはユーミンの歌詞だが、僕にもかつて、神様と呼んで差し支えないような存在がいて、僕がすべきことをそっと教えてくれたものだった。なんでもないような瞬間に、人生の指針とも言える考えがパッと頭の中で発生する。根拠はどこにもなかったが、僕はそれを信じた。実際のところ、色々とそれでうまいこといった。神という概念があるのも不思議ではないと思う。

 

 しかし歳を重ねるごとに啓示が降りてくる頻度も減っていった。二十歳を超えてからは、一度もない。啓示を受けていた頃は、細く光る一本の道があって、その上を歩けばよかったのだが、今となっては、曖昧で薄暗い未来しか目に入らない。漠然とした不安が頭の回路にブレーキをかけている。不当だ、と思うこともあるが、神に何かを尽くしたわけでもないので文句は言えない。

 

 この間、啓示に似た感覚が頭を支配した。何故だか分からないけれど、ウェルベックを読まなければいけない、という思いに囚われた。しかしウェルベックの本は一冊も持っていなかった。なので手に入れるまでは別の本を読んでおこうとしたのだけれど、どうも頭に入らない。小説だからいけないのか?と思いエッセイや詩集を読んでみたが、どれもこれも目が滑る。どうしようもない。諦めて書店に行き、『闘争領域の拡大』を購入した。

 

 何故『素粒子』や『服従』ではなく、『闘争領域の拡大』を選んだかというと、これはただ単純にタイトルで選んだ。この僕の曖昧な日々には闘争が足りない!という気持ちで選んだ。しかし、この物語で語られる闘争は、僕の安っぽい気持ちを軽々と轢き潰すほど強烈で、暴力的だった。

 

 この物語では、経済的には勝ち組ではあるが、恋愛面では負け組である主人公によって、社会のシステム・人間関係が淡々と観察され、時にはあまりにも露骨すぎる物言いが炸裂する。テクストは断片的で、文体は冷ややかだ。しかしその根底にはどす黒い色をしたテーマが蛇のようにトグロを巻いている。

 

完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。

 

 ウェルベックはこの小説の中で、経済と恋愛(というかセックス)の自由化による階層構造の発生について語っている。一方で今僕が生きている社会は、開放的なものに移行している。これまでには抑圧・無視されてきたあらゆる価値観が認められつつあり、政治家たちはこぞって多様性というキーワードを掲げている。ウェルベックの語る階層構造が縦のものであるとすれば、今の状況は横方向への拡大だと感じる。しかし、縦であろうが横であろうが、システムの拡大は闘争領域の拡大であり、僕はこのあらゆる生き方が許されうる社会で、自分から見た自分と、他人から見られる自分を満足させるために、闘争しなければならない。結局のところ、闘争領域の拡大した社会において必要なのは、闘争心である。そう、闘争心。僕に足りていないのは闘争ではなく、闘争心だった。

 

 この主人公もまた、闘争心が欠けているのかもしれない。自らはなにもせず、醜い顔をした同僚を唆し、ある「革命」を起こさせようとするが失敗する。主人公は自殺を考え、自傷行為をし、奇行に走り、療養所に入る。この憂鬱の果てには破滅などは用意されておらず、主人公はただただ負けを認めることしかできない。本当に、読んでいて憂鬱になる。

 

 大晦日の夜は耐え難いものになるだろう。ガラスの壁が砕けるように、自分の中でいろいろなものが壊れていくのを感じる。僕はがむしゃらに、うろうろと歩きまわる。いてもたってもいられない。しかしなにもできない。なにをやっても失敗する気がする。失敗。失敗だらけ。自殺だけが遠く埒外できらめている。

 

 自殺。確かにこれ以上生きていても仕方がないのでは、と思うことは多々あるが、それは希死念慮とイコールで結べない。死ぬ勇気なんて微塵も持ち合わせていない。自分自身に価値を見出せないとすることで、闘争から離脱しようとしている。しかし、どこまで逃げてもセーフティゾーンなどというものは存在しない。闘争からは逃れられない。いつかは僕も負けを認めなければならない時が来る。だが、負けを認めたとして、そこで僕の物語が終わるわけでもないだろう。その負けの先には今よりもっと惨めな人生が待っている気がする。僕は闘争心を持たなければならない。

 

 もしこの本を読ませたのが神の仕業ならば、神はかなり趣味が悪いと思う。