田紳有楽・空気頭

 われひと共にただエーケル、エーケル。しかしやっぱり願うはひとつ、「不生不滅、不増不減」。

 

 紆余曲折があって、僕は今、僕以外誰もいない研究室へ登校し続けていて、そして恐らく一ヶ月後には、片道1時間ほどかかる別の大学へ通うことになっている。卒業が見えてきた修士2回生のこの時期に、どうしてそんな境遇に放り込まれたのかと、知り合いたちは当然の如く不思議がるので(僕だって不思議だ)、僕は知り合いに会うとその経緯をつらつらと話していたのだが、知り合いに会うたびにつらつらつらつらと話していくうちに、僕の方が経緯を話すことに飽きてしまったので、紆余曲折があった、という言葉で経緯を端折るようになった。本当に便利な言葉だ。

 

 誰もいない研究室で何をしているのかというと、こそこそとこれまでの実験をやり直したりしている。というか、それ以外できることがない。ありとあらゆる実験器具は教授陣が自分の領地へと掻っ攫っていったので、新しいことは何もできない。実験のやり直しも、隣の研究室へ行き、ヘコヘコ頭を下げながら機器を使わせてもらってなんとかできている。もちろん、これまでと似たようなデータが出て、研究としては何の進捗もない。無意味な数字の羅列をぼーっと眺めて、お昼時になると一人で食堂へ行く。「ライス小で」と言う時に発する声で、喉が枯れかけたりする。それぐらい平日は人と喋らない。窓際の席で、風に揺れる木々を見つめながら黙々と食べる。酷い時は、周りのグループの笑い声が、僕に向けられた笑い声のように感じる。

 

 こんな境遇に放り込まれたのは、指導教官の移籍が原因なのだが、その指導教官は新しい環境で忙殺されている。週に一度は指導教官がいるところへえっちらおっちらと片道1時間かけていくのだが、特にその場でやれることは何もなく、2時間ぐらい経つと帰される。そしてまた、えっちらおっちら1時間の帰り道。先週は帰り際に指導教官からとても有難いお言葉を頂戴した。「鬱になったらあかんで」と。はは、その通りですな。

 

 こういう話を友達にすると大半は、僕が想像していた以上に反応してくれて、中には僕の代わりに憤慨してくれる人もいる。こうしたリアクションを前にして、僕は「そんなに怒らなくても…」と思ってしまうことがある。自分自身、一人で過ごしているときは怒りとか惨めさと寂しさとかが入り混じった感情で心を削られているのに、いざ知り合いに話すとなると、どうしてかネタとして消化してしまう。そりゃあ勿論、友達に言ったって仕方がないのは事実だ。だからといって、日々打ちひしがれている自分をコンテンツ化してしまうのはどうなんだ?僕が独りで苦痛を感じているということが本当ではなくなってしまうのではないか?この苦痛が嘘ならばどの感情が本当なんだ?どの自分が本当の自分なんだ?

 

  錯乱して思考が鈍り続ける日々の中、知らないうちに藤枝静男の「田紳有楽・空気頭」が部屋の中にあって、知らないうちに読み始めていた。本当に、これを買った経緯も読み始めた経緯も思い出せない。

 

 徹底して私小説を追求した作品である、という前情報だけはなぜか脳の引き出しにあったので、少し身構えながら読み進めたのだが、これは、私小説を追求しすぎて私小説を通り越している作品だった。いや、通り越しているというか、ゴム手袋を勢いよく外す時のように、内側がベロンと捲れている作品と言う方が感覚的に近い。荒唐無稽だが、だからこそ近づける真理のようなものもある。

 

 僕の錯乱した感情は何に近づけるのか?

 

「オム マ ニバトメ ホム」

「ペイーッ ペイーッ」

ププー プププー デンデン カーン

「パーダム パーダム」

ジャラン ジャラン ジャラジャラ

ガーン ポラーン

「ペイーッ ペイーッ」

「田紳有楽 田紳有楽」