犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎

 犬が苦手だった。苦手になったきっかけ、というものは思い出せず、物心ついた時からずっと犬のことが苦手だった。これは犬種によらない。ゴールデンレトリバーのような大型犬はもちろんのこと、チワワのような小型犬も駄目だった。散歩している犬とすれ違うときは毎回ものすごく緊張するし、何ならすれ違わなくていいように道を変えることすらした。とにかく、僕は何故か犬という存在に怯えてしまうのだった。

 

 そんな僕に、衝撃的な事実が発表されたのは去年の春先ごろのこと。京都にいる僕と東京にいる姉が帰省しづらいご時世が続いているので、うちの家では定期的にzoomを用いたオンライン帰省なるものが開催されている。その時も何度目かのオンライン帰省で、まぁ特に変わった話をすることもなく、各々が近況報告をするだけの会となっていた。姉が仕事の話をしているのを聞きながら、実家の方の映像をぼんやり眺めていると、何か違和感を覚えた。お父さんが見慣れない毛布のようなものを持っている。いや、全然帰省していないから毛布を買ったことを知らないだけかもしれないのだが、毛布にしては妙にゴワゴワしすぎている。更に妙なのは毛布の持ち方で、持っているというより抱きかかえているという方が正しい。とか思っていると、その毛布が動いた。トイプードルだった。

 

 犬が苦手な僕に黙ってトイプードルを飼い始めた両親に絶句し、ちょっと怒りもしたが、ものすごく説得されて、まぁ僕はずっと実家にいるわけではないし、ということで両親を許し、その数ヶ月後ビビりながら帰省し、緊張のご対面を済ませて、その後も何度か帰省した結果、驚くべきことに今では犬に対してかなりポジティブな感情を持つことができるようになった。家族、というシステムには不思議な力がある。

 

「よしよし、いい子だ」僕はブルドックに声をかけたが、自分の耳にもあまり説得力があるようには聞こえなかった。

 

 コニー・ウィリスというと、数年前に『クロストーク』という作品が話題になっていたことを覚えているが、僕はそちらを読んだことがなく、今回が初コニー・ウィリスとなる。『犬は勘定に入れません』という不思議なタイトルは、僕が前回記事にした『ボートの三人男』の副題から取られている。ここでおや、そんな副題だったかな、となる。僕が読んだ『ボートの三人男』(光文社古典新訳文庫)には『もちろん犬も』という副題がついている。これは翻訳による違いで、原文は『To Say Nothing of the Dog!』であり、直訳すると「犬については言うまでもなく」となる。『ボートの三人男』に出てくる犬のモンモランシーの描写からすると、『もちろん犬も』という訳の方がしっくりくる気がする。この辺のことについては『ボートの三人男』(光文社古典新訳文庫)の訳者後書きにて触れられているので気になる方は読んでみてください。

 

 と、いうことで『ボートの三人男』を律儀に読んでから『犬は勘定に入れません』を読んだのだが、結論からいうと『ボートの三人男』を事前に読む必要はそこまでなかった。こういう系の例として、夏目漱石の『吾輩は猫である』と奥泉光の『『吾輩は猫である』殺人事件』がある。こちらは元ネタの文体・設定を大いに活かしているのだが、『犬は勘定に入れません』はそこまで活かされていない。というかわざわざ『ボートの三人男』の副題をタイトルにする必要があったか?と言いたくなるほどだった。

 

 あらすじをざっくりと紹介する。大まかにいうとタイムトラベル系のSF・ラブコメで、第二次世界大戦中に空襲で焼失したコヴェントリー大聖堂の復元計画のため、21世紀と20世紀を何度も往復していた主人公が過労で倒れてしまい、療養のためにのどかなヴィクトリア朝時代に行くのだが、ここでもトラブルに巻き込まれ…という感じ。ヴィクトリア朝時代はまさに『ボートの三人男』が書かれた時代なので、物語にガッツリ絡んでくると期待していたのだが、実際は"ボートの三人男"とすれ違うだけで全然物語に関係はない。話のメインテーマとしては、タイムトラベル系の王道な「世界線の変化及び修復」であり、ボートに乗っているのは前半の少しだけで、シリルという名の犬(ブルドック)も後半になると全く存在感が無くなってしまう。

 

 『『吾輩は猫である』殺人事件』のような、前作を踏まえて大暴れする作品を期待していたので肩透かしを食らってしまったが、作品単体で読むとまぁそれなりに面白かったと思う。ただ文庫本で上下巻あり、中盤は結構だれてしまう。この本も『ボートの三人男』と同じで、余裕がある時じゃないと楽しめないかもしれない。

 

 『犬は勘定に入れません』では犬のシリルに加えて、猫のプリンセス・アージュマンドが登場する(というかこっちの方が物語的に重要だったりする)。僕の実家でもトイプードルの他に、二匹の猫が暮らしている。犬も可愛いと思えてきたが、やはり猫の可愛さには到底かなわない。