マクベス

「テレンス」息せき切って訊ねた。「今日は何日だ?」

「どうだっていいじゃないか。『あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階を滑り落ちていく……いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ』愚か者!」

(犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎/コニー・ウィリス)

 

 

 そういえば、シェイクスピアって読んだことないな、と『犬は勘定に入れません』を読みながら思った。この本では、文学かぶれのテレンス君がこれでもかと言わんばかりに古典作品の一節を引用しまくる(テレンス君はヴィクトリア朝時代の人間なので僕らよりも200年ほどシェイクスピアに近いのだが…)。そのあまりにも多い引用に、僕の「古典作品に触れてないコンプレックス」が刺激されたので、引用回数の一番多かった(多分)『マクベス』から読んでみることにした。短いらしいし。

 

 さすがは400年前の名作古典作品、翻訳も結構な数がある。こういう時は光文社古典新訳文庫を選ぶ。古い訳だと表現がいかつ過ぎて頭に入ってこないことが多々あるし、何より文字サイズが小さくてストレスを感じてしまう。新しい訳は分かり易すぎて趣がないから駄目だ!とか言う輩もたまにいるが、入りから躓いてしまってはどうしようもない。僕は好きなバンドのおすすめアルバムを聞かれたときには積極的にベスト盤を推す。いいと思った曲から各アルバムを辿っていけばいい。最初からコンセプトアルバムなんかを聴いてしまって「よく分からなかった…」となるのは勿体無い。話が逸れたが、光文社古典新訳文庫望月通陽が描いている表紙も良い。持っていてテンションが上がる。岩波文庫白水社uブックスはいかにも「教養でござい!」と言う感じがして、気がひける時がある。デザインは大事。

 

魔女一 いつ会おうぞ、わしら三人、この次は。雷、稲妻、それとも雨ん中?

魔女二 戦のどさくさ 終わる時

    勝負に負けて 勝った時

魔女三 それなら、陽の落ちるその前だわな。

魔女一 で?場所は、どこ?

魔女二 荒野だな?

魔女三 そこで会おうぞ、マクベスに。

 

 さて内容だが、いやはや、シェイクスピアを舐めていた。こんなに面白いとは。そりゃ400年経っても未だに新訳が出るくらいだから、抜群に面白いのは確かなのだが、実際に読んでみると度肝抜かされる。あらすじとしては、マクベスという男が魔女に唆されて王を殺し、破滅の道を辿る、という何の意外性もない話だが、熱量がすごい。三人の魔女が語る言葉の不気味さや、殺人の重圧でおかしくなっていくマクベスなど、目を離せない魅力がある。戯曲なので基本的にセリフしか書かれていないのだが、大げさすぎるセリフのおかげで単調さは微塵も感じない。

 

マクベス ヘビの体に傷はつけたが、殺してはおらん。傷が癒えれば、またもとの姿に戻ろう。となれば、なまじ敵意を見せたばかりに、元の毒牙に噛まれる危険はのがれられん。ああ、いっそ、この世の関節が外れるといい。天も地も崩れ去ってしまうがいい!恐怖に心みだしながら飯を食い、夜ごと恐ろしい悪夢に身をおののかせつつ眠らねばならぬくらいなら!死んだ者らと一緒のほうがまだましだ。われらの平安を得るために、やつらの死を平安に送りこんでしまったのに、今のわれらは魂の拷問台に縛りつけられ、たえまない不安の狂気に苦しみもがくばかり。

 

 マクベス自体は心が強くない。魔女に唆された王殺しも、夫人にめちゃくちゃ後押しされてやっと決心がつく。僕も自分の行動を正当化するために、周りの意見を聞きまくってしまうタイプの人間なので、マクベスの弱さに親近感が湧いた。人間の弱さっていうのは何百年経っても変わらないんだな…。

 

 あと噂通り、短くて非常に読みやすかった。殺し屋が何故か一人増えてるけど全然伏線とかではなかったり、マクベスの王殺しがいつの間にか公然の事実になってたりと、色々端折られてるのかな?と思う部分はあったけど、そんなこと気にならないくらいのドライブ感がある。しかし実際には、これらの疑問点から『マクベス』には元来のテキストがあって、縮約版が出回っているのでは、という説もあるらしい。400年前の作品なので研究やら考察は無限にある。それら読んで理解を深めていきたいが、まず僕は世界史を勉強していかねば…。

 

 冒頭に載せたテレンス君の引用は五幕五場の名シーンなのだが、光文社古典新訳文庫安西徹雄訳と比べてみると結構違うことが分かる。『犬は勘定に入れません』では新潮文庫福田恆存訳だが、この二つの訳はおよそ40年の隔たりがある。こういう風に訳の違いを楽しめるのも古典作品の良いところ。実際にやるかどうかさておき。

 

 シェイクスピアの面白さに気づくことができたので、とりあえずは光文社古典新訳文庫で集めていこうかなと思ったが、『ハムレット』『マクベス』『十二夜』『ヴェニスの商人』『ジュリアス・シーザー』『リア王』の六作品しか出版されていない。これは、安西徹雄氏が亡くなってしまったためらしい。最後に訳をしていたのはこの『マクベス』で、初校の校正途中でこの世を去った。一作品を読んだだけだが、この人のシェイクスピアが揃うことは無いのだと思うと、ただ悲しい。

 

マクベス どうせ死ぬなら、今でなくともよかったものを。明日また明日、そしてまた明日と、一日一日、小刻みな足取りで這いずってゆき、"時"そのものが消滅する、世界の終末のその瞬間まで延びていく。そしてわれらのすべての昨日は、愚か者らが死んで塵に還る道を照らしてきたのだ。