百年の孤独

 2010年代最後の大みそかに僕は38度を超える熱を出し、駆け込んだ休日急患でインフルエンザと診断された。その後熱は39度を超え、意識は朦朧とし、気づいたら2020年に突入していて、そのまま三が日をすべて布団の中で消費した。ようやく落ち着きを取り戻したのは新年あけてから四日目のことで、そのころにはもう世間は新年ムードにも飽き、もうすぐ始まる仕事やら学校やらに意識が向かっていた。僕だけが2019年に取り残されたような、そんな宙に浮いたような感覚があった。

 

 ふわふわとした気持ちに釘を打とうとして、今年の一冊目はG・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』にした。文学の最高傑作を議論する上では必ず名前が挙げられるほどの名著だが、なぜか文庫版がなく、単行本は3000円近くするため中々手を出せずにいた。去年の暮れにブックオフかどこかで半額ほどになっているのを見つけて購入し、読むべき時期を見計らってそのまま年を越してしまったという訳だ。

 

 さて、確かに曖昧な気持ちに釘は打たれたが、その釘もまた曖昧なものだった。

 

 『百年の孤独』はマコンドという土地に移住してきたブエンディア家の歴史を連ねたもので、その歴史はマコンドの開拓者であるホセ・アルカディオ・ブエンディアから六世代(?)先のアウレリャノにまでわたる。この小説の特徴は何といっても人物名で、アルカディオ、アウレリャノと名のついた人物はそれぞれ5人ずつ登場する。ブエンディア家では男が生まれるたびにアルカディオとアウレリャノを交互に名付けていくのだ。もちろんアウレリャノ・ホセやらアウレリャノ・セグンドなど細かい名称の違いはあるが、500ページにわたってその名称の区別に対する集中を切らさないことは不可能で、ひとたび休憩をはさんでしまうともう誰が誰だったのか分からなくなってしまう。

 

 巻頭にはブエンディア家の家系図がまとめられているが、読んでいるとこの家系図はほとんど役に立たないことが分かる。なにせ中々人が死なない。ホセ・アルカディオ・ブエンディアの妻であるウルスラは150歳近くまで生き抜き、ブエンディア家のほとんどの人間と関わる。人が死んだと思っても、また亡霊となって現れる。マコンドに文明をもたらしたメルキアデスは一度死を迎えるが、再びマコンドにあらわれ生者とほとんど変わらない暮らしぶりをする。これらのために世代という意識がほとんど通用しない。家系図の縦軸が物語と合わないために余計混乱してしまう。

 

 ここまで殆ど愚痴になってしまったが、物語自体は一級品である。ぐいぐい読ませる魅力がある。それぞれのキャラの全盛期における勢い、晩年のもの悲しさ、これぞマジックリアリズム!と言いたくなるような描写に彩られた死に際、などなど小説の良さが幾重にも折り重なっている。

 

 しかしまぁ感想を書くのが難しい。物語の記憶はもうチェーンネックレスのように絡まって解くのが一苦労だ。どうしてこんな複雑怪奇な構成なのかと少し憤りを感じるほどだったが、解説などを読むうちに分かってきたことがある。ガルシア=マルケス自身は「語り部」に憧れていたということ。そしてその「語り部」は物語の整合性などそっちのけで、あっと驚くような仕掛けやストーリーのどんでん返しを盛り込んだこと。ガルシア=マルケス語り部として「語り」をそっくりそのまま小説に落とし込もうとしたのではないか。そう思うとすごくすっきりするような読後だった。

 

 

 『百年の孤独』の衝撃で、僕の2020年が緩やかに始まったような気がする。