ポエトリー・ドッグス

「よくわからないけど、ことばによって、じぶんが、はっきりする。でも、それは、けっきょくじぶんではないものができるというのと、いっしょな気がするんだ」

 

 心の中に自分がいる。そして、身体としての自分が在る。だけれどもこの世界のどこにも自分がいない。そんな馬鹿みたいな考えが頭をよぎることがある。一陣の風のように。本棚を見てそう思うことが増えたかもしれない。

 

 どうしてそんなに本を集めているんですか?と聞かれることがある。電子書籍が世に出回り始めて久しい。紙ベースの本を集めている人間の方が不思議な存在とされる時代が来ている。電子書籍は味気ないから…なんて理由ではない(実際電子書籍を読んだ経験がほとんどない)。紙の本を集めているのは、それが自分の一部である気がするから。そして、それらを手放せないから、本棚が肥大化していく。

 

 社会の一部となってもうすぐ一年。学生の頃と比べてほとんど本を読まなくなってしまった。そうなる前に、僕は詩集を買い漁っていた。詩というものが、自分が追い求める、真理に似た何かに一番近い気がしていたから。読んでは買い、読んでは買いを繰り返していたが、レコードの再生が止まるように、そのループがいつの間にか停止していた。そして今、時々、本棚の前に立つと、読んだはずだが、読んだ記憶の無い詩集の連なりから、一陣の風が吹いてくる。心と形容するのも憚られるほどに惨めな僕の内部に風が吹く。紙の本が自分の一部であるならば、もう一人の再構築された自分は、型にはめられてひっそりと死んでいるのではないか。

 

 身体を持つ僕は生き延びている。生きているかと問われると自信がない。生の証明…それはアウトプット、創造的行為だと中学生ぐらいの頃から考えてきた。考え始めて10年近く、その証明に値するものを提出できていない。ハードルが高すぎるかもしれないが、そのハードルは下げ続けてきたはずだ。アウトプットに対してのインプットの過多。それを問題視してきた学生生活であったが、今こうして振り返ってみると、インプットも出来ていない。全ての出来事が過去であり経験ではない。形だけがあり血肉ではない。

 

 …何かと成果を要求される社会のシステムに、毒されてしまった面もあるかもしれない。立ち止まって本を読む、ただ純粋に、心を洗うように。それができた経験も確かにある。またいつか、ゆっくり歩いていけば同じような経験ができるはずだ。今はその小さな可能性に小さな祝福を。

 

 斉藤倫の『ポエトリー・ドッグス』を読んで、揺れた心が連ねたことば。じぶんははっきりしただろうか?じぶんではないものができただろうか?この物語の中のバーでは、いぬのマスターが詩を出してくれる。僕にはどんな詩が出されるのだろうか?

 

「わたしがいうのもなんですが」

マスターは、いった。「のみすぎていらっしゃいます」

 

 シラフだが、破茶滅茶な文章になってしまった。書くことをサボってはいけないな。