ボートの三人男 もちろん犬も

「僕らに必要なのは休養だよ」とハリスが言った。

「休養を取って、気分を一新することだな」とジョージ。「脳に対する過剰な負担のせいで、全身が沈滞状態に陥っているんだよ。環境を変えて、ものごとを思い悩む必要から解放されれば、精神の平衡が取り戻せるはずだ」

 

 先日、3年にわたって僕の精神に負荷をかけ続けてきた研究室生活に終止符を打った。最後の最後に、負荷の主な原因である指導教官から"ありがたい"お言葉を頂けた。少しイラっとしたが、逆に言えばそれだけで済んだ。最後にはこれまでの蓄積が爆発するかと思っていたので、意外だった。もう行くことはないであろう研究室からの帰り道では、特に何の感慨もわかず、清々した、という気持ちにもならず、ずっと晩御飯は何にするかということを考えていた。そういうものか。

 

 周りの同期達は、引っ越しの準備で忙殺されている。僕は研究室移動などの諸事情で一月に引っ越しを済ませていたので、悠々と新生活の準備ができている。だがあまりにも悠々すぎるので、逆に不安な気持ちにもなる。人間はやっぱり適度に忙しいのが一番いいのだろうなぁと思いながら、ジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男 もちろん犬も』(光文社古典新訳文庫)を読んだ。

 

 僕もボート旅行は大好きだ。僕とハリスはジョージをさんざん褒めそやしたが、どうも僕らの口調には、ジョージがこれほど頭のいいところを見せるとは驚きだという気持ちが表れていたようである。

 

 この小説は簡単に言えば、語り手である僕(作中ではJと呼ばれる)とハリスとジョージという三人の男(+犬のモンモランシー)が、イングランドテムズ川を二週間かけてボートで旅する話である。三人の男達が、仕事に疲れ切ってしまったのでボートの旅で休養を取ろう、という流れ。正直な話、この三人の男は誰が誰であってもいい気がする。三人とも自分の行動に対して謎の自信があり、他の二人に対して皮肉たっぷりのユーモア(ユーモアたっぷりの皮肉?)を飛ばしまくる。

 

 ハリスという男は、そこの角を曲がったところにあって素晴らしい酒を飲ませてくれる店をしこたま知っている。もし天国でハリスに会ったなら(彼が天国に行けるとしての話だが)、即座にこう言い出すだろう。

「おっ、よく来たね。そこの角を曲がったところにいい店を見つけたんだ。特急品の神酒(ネクター)にありつけるぜ。

 いま以上に眠くなるようなことをしてもジョージは大丈夫かね、とハリスは茶々を入れた。そいつは少々危険じゃないか。一日ってものは夏でも冬でも二十四時間しかないんだから、ジョージがこれ以上どうやって眠るつもりなのか見当がつかない。

「なんだと?俺は少なくともJのやつよりは働いているぞ」ハリスが反論した。

「そうだな、Jより仕事をしないってのは無理だもの」と、ジョージも風向きをかえる。

「たぶんJは、自分がお客様だと思ってるんだぜ」ハリスは言いつのった。

 

 この小説自体は130年ほど前のものだが、こうした諧謔的な言い回しのおかげで今でも十分楽しめる。「荷造りが終わった瞬間に入れ忘れに気がつく」や「お湯を沸かしているときは見ていない方が早く沸く」など現代でも通じるあるあるも交えながら、面白おかしいエピソードがずっと打ち出されるので、楽しく読み終えることができた。

 

 しかしながら、良くも悪くも(基本的には悪くも)鼻につく言い回しが延々と続くので、精神的に余裕がないと読むのはしんどいかもしれない。なのでこれを読むのは、精神の平衡が取れているときをおすすめする。例えば、テムズ河をボートで旅している時など。いや、それだと缶切りが見つからなくて精神が乱れているか。