二十億光年の孤独

 もうなんでもいい、どうでもいい、と思いつつ、やはり諦めきれず、もがく。液体の中に沈んでしまえばいいのに、なんとか息をしようとして、もがく。日々は穏やかだが、だからこそ深くて恐ろしい海がそこにある。

 

 読むことは、ただ読むだけのことであって、なんの生産性もないから、僕は何もしていないのではないか?というのは二、三年前の僕が恐れていたことだが、実はそこからさらに恐ろしい現実があった。読書を捨てて、ただYoutubeを見て時間を浪費する、何も、何も、考えていない人間。さっと消費して次に移れる娯楽の海に心地よく沈んでいく人間。そうなってしまうんだよ、二、三年後の君は。

 

 悲しいかな、言い訳はたくさん見つかる。修士論文の作成や、引っ越しや、運転免許の取得や、様々な書類の申請などで、脳の余白が足らないからだと。だが、これまでに本を読むために必要だった分の余白は確かに存在している。その余白には、やはりこちらに対して易しく編集された短い動画が何本も滑り込んでくる。何回も見たことがあるものも、何故かまた見てしまう。心地よい無思考の時間。そして真夜中。あぁ、今日も何もできなかったな、なんて思いつつ、眠る。眠りの浅さは日々を追うごとに増す。

 

 眠る時にアンビエントをよく聴く。気持ちが落ち着いてよく眠れる、と思っていたが近頃は逆に、アンビエントを流さなければ眠れない、という強迫観念に囚われつつある。物事はいつだってこうだな。一つの形がその形のまま留まることは殆どなくて、変形したり根本から裏返ったりを繰り返す。読書に対する悦びを書き記すために始めたこのブログに対して、僕は今、苦しみを感じている。読むことと書くことがセットになっているから、この余白には入らないよな、という言い訳が、僕の無思考と惨めさを加速させる。

 

 アンビエントもやはり、何も考えなくていい、という要素を持つ。聴いてもいいし、聴かなくてもいい音楽。世界的なパンデミックとそれに伴う諍いの連続に疲れた人々にフィットするという理由で、アンビエントは流行っている、らしい。では、この僕の堕落した脳と心もそれで説明がつくか?僕は"疲れてしまっている"のか?いや、そうやって説明をつけてしまえば、そこで終わりだな。可哀想な社会、可哀想な僕、おしまい。そこから先は、誰が編集して、アップロードしてくれる?

 

 僕はもがく。本当の本当に僅かな空気をなんとかして吸い込む。あるいは、ほつれにほつれて今にも切れそうな一本の糸を手繰り寄せる。その空気の名前が、その糸の名前が、谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』だった。去年の年末から、今年にかけて、読んでいるのか読んでいないのか分からないようなペースで、読んだ詩集。読むという行為自体が目的になってしまっているのでは、と頭の中のみんなが言う。僕もそう思う。でも、それでも、読まないよりはマシだって、言わせてくれ。頼む。

 

  かなしみ

 

あの青い空の波の音が聞えるあたりに

何かとんでもないおとし物を

僕はしてきてしまったらしい

 

透明な過去の駅で

遺失物係の前に立ったら

僕は余計に悲しくなった