青白い炎

 こんにちは。

 

 時々、どうしてもあの本が読みたい、と思う瞬間がある。その発作が起こった時には古本屋や図書館を巡りその本を手に入れようともがく。新品を買うという発想はあまりない。お金が無いからね。でもどうしても手に入れられないときには新品で買ったりもする。今回は運よく図書館で借りることができたのでよかった。

 

 ということでウラジーミル・ナボコフ著『青白い炎』の感想を書く。

 

 

 借りたのは岩波文庫版で、富士川義之が訳している。最近『淡い焔』として森慎一郎訳が出版されたらしいが、『青白い炎』の方がなんだかかっこいいし、単行本の新刊は高いし、という理由で岩波文庫版を借りることにした。大学の講義と講義の合間に岩波文庫を読んでいると賢そうに見えるから、という小恥ずかしい理由もある。時々自分が何と戦っているのか分からなくなる。

 

 『青白い炎』は小説という形式に戦いを挑んでいる。目次には「前書き」「青白い炎」「註釈」「索引」の文字が並んでいる。海外文学なので「註釈」がつくのは不思議ではないように思われる。しかし『青白い炎』の特殊な点はこの「註釈」も小説の一部、むしろ小説の根幹をなしていることだ。(この記事ではナボコフの小説としては『青白い炎』、作中の詩としては「青白い炎」と書き分けているので注意して読んでほしい)

 

 「青白い炎」自体はジョン・フランシス・シェイドという詩人による999行の英雄対韻句である。ジョン・シェイドはこの詩を書き終えた日に不遇の死を遂げる。その後彼の友人であるキンボートにより「前書き」と「註釈」、「索引」がつけられ出版された、という体の小説だ。

 

 これを小説といっていいのか?分からない。僕を混乱させるのはこの小説の奇妙すぎる構造にある。「前書き」を読んでいると〈991行に付された註を参照〉という指示に行き当たる。言われた通りに991行目への註を読んでみると、今度はその註の中に〈…47‐48行目への註釈で言及しておいた…〉という文章を発見することになる。言われるがままに47‐48行目への註を読んでみるとそこでも〈691行目への註参照〉という指示に出くわすことになってしまう。そのように読者を振り回す構造を取りながらもそれでいてしっかりと小説らしい物語のラインが感じとれる。奇妙さを通り越して恐怖すら感じてしまう。

 

 同じく註釈を多用する小説として田中康夫の『なんとなく、クリスタル』があげられるが、こちらはページごとに多量の註釈がつく形であった。『なんとなく、クリスタル』が幹がまっすぐにのびた針葉樹のような小説で、『青白い炎』は幹や枝が複雑に絡み合った広葉樹のような小説だな、と読みながら考えていたがこの表現は適切ではないかもしれない。すくなくとも僕の乏しい感性ではそう感じられた、という余談だ。

 

 

 設定を考え直してみれば、この奇天烈な構造を採用したのはキンボートであると言える。ジョン・シェイドの友人であり、大学教授とされているキンボートだが、「前書き」の段階から彼の狂気の片鱗が見えはじめる。「前書き」の冒頭には「青白い炎」が如何にして書かれたか、ということが語られるが急に〈私の現在の下宿のすぐ前に、ひどく騒々しい遊園地がある。〉という文が挿入される。そして何事もなかったのように次の段落が始まる。さらに本小説の項数の三分の二ほどを占める「註釈」だが、ジョン・シェイドと彼の詩とは全く関係のない物語が語られるときもある。それはキンボートの祖国であるゼンブラ王国の話であったり、国王を狙う暗殺者の話だったりもする。そのようにして狂気じみた語り手によって非常に不規則に物語は進行し、そして一応の結末を迎える。

 

 海外文学にはよくあることだが、小説の冒頭に引用が掲載されている場合がある。『青白い炎』ではジェイムズ・ボズウェル著『サミュエルジョンソン伝』から引用されていた。その一部をここに抜粋する。

 

 〈「でも、ホッジを撃っちゃいけない。いや、いや、ホッジを撃っちゃいけない」〉

 

 なぜこんな抜粋をしたかというと、結末まで読み通すとこの引用の意味がはっきりと分かるからだ。まるで、この引用も小説の一部だと言わんばかりに。

 

 

 全編550項近くとかなりのボリュームがあるが、想像していたよりもかなり読みやすかった。ゼンブラ国王の逃亡劇やそれを追う暗殺者のエピソードなどはなかなかミステリチックで面白かったし、詩を我が物にしようと執拗にジョン・シェイドに付きまとうキンボートの描写などは狂気じみていてよかった。(その狂気を自覚していないというのもまたよい)また、「索引」では人物の項目にはそれなりの解説がつけられているが、ジョン・シェイドの妻であるシビル・シェイドの項目には〈ジョン・シェイドの妻、随所に登場〉と書かれているだけであった。これは「註釈」でたびたび語られるようにキンボートがシビル・シェイドを疎ましく思っていることの表れともいえる。「索引」もキンボートが書いている、という設定を感じる描写であり、芸の細かさにいたく感動してしまった。

 

 「青白い炎」中にも感動した箇所がある。国外の詩にほとんど触れていない身としてはほとんどの行において良し悪しが分からなかったのだが、939-940行の詩を読んだときにはある種の電流が脳内を駆け巡ったように感じた。

 

〈難解な未完の詩への註釈としての人間の生涯。のちのちの使用のための註。〉

 

 これは、『青白い炎』の膨大な註釈へのメタ的な言及と取ることもできるし、ナボコフ自身の人生観ととらえることもできる。

 

 僕はこの行を読んだときに寺山修司の詩を思い出していた。

 

 寺山修司歌人・劇作家であり、死後35年がたった今でもカルト的な人気を誇っている。国語の教科書には彼の詩が掲載されていたり、数々のアーティストにその影響の節々が見られるなど、日本の現代詩の世界においては大きな存在感を放っている。と、僕は勝手に思っている。僕が寺山修司の世界に触れたのは高校生の時で、『毛皮のマリーズ』がきっかけだったがこの話を始めると長くなってしまうので割愛する。基本的に近所のブックオフにあった彼の作品は殆ど買い占めていた。その中でも一番好きだったのが『寺山修司少女詩集』で、一時期学ランのポケットに入れていつでも読めるようにしていたことがあった。その詩集の中にある「みじかい恋の長い唄」という作品を引用する。

 

 〈この世で一番みじかい愛の詩は 愛 と一字書くだけです この世で一番ながい愛の詩は 同じ字を百万回書くことです 書き終わらないうちに年老いてしまったとしても それは詩のせいじゃありません 人生はいつでも 詩より少しみじかい のですから〉

 

 いやはや、美しい。

 

 ナボコフの詩は人生は未完の詩への註釈である、と語り、寺山修司は人生は詩を書ききれないほどに短いと語る。この人生と詩の関係性に対する解釈の一致!興奮を覚えずにはいられなかった。ナボコフ寺山修司が生きている期間は被ってはいるものの、二人の交流があったという記録はないし、どちらかが他方の作品を読んだという記録も見たことがない。つまり彼らは別のルートをたどりながらも同じテーゼに辿り着いたのだ。そしてそのテーゼはシンプルで洗練されていて、強力だ。

 

 

 

 その特異的な構造から実験小説として紹介されることも多い『青白い炎』だが、実験的でありながらも読みやすさを保った見事な小説だったと感じた。変な小説が好きな人は是非とも読んでいただきたい。あと読むときには栞を複数用意することをお勧めする。