ジャップ・ン・ロール・ヒーロー

 「僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。」と村上春樹は彼の処女作『風の歌を聴け』で語っている。

 

 

 デレク・ハートフィールドは1909年生まれのアメリカ人作家であり、代表作には冒険小説と怪奇ものを組み合わせた『冒険児ウォルド』シリーズがある。銃と猫と母親のクッキーが好きで、銃に関しては全米一とも言えるほどのコレクションを持っていた。29歳の若さで飛び降り自殺しており、彼の出生地のオハイオ州にある墓には彼の遺言に従って「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」というニーチェよる言葉が刻まれている。

 

 デレク・ハートフィールドの作品を求めて図書館などを訪れても、見つけることは出来ない。残念ながら彼は架空の作家である。

 

 

 鴻池留依の『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』は架空のバンド「ダンチュラ・デオ」にまつわる小説だ。

 

 「ダンチュラ・デオ」は1982年にヘヴィメタル・ハードロックブームの波に乗りデビューしたバンドで、音楽活動は表の姿で実はCIAのスパイとして工作活動を行うチームである…という胡散臭さの激しいプロフィールを持っている。1993年に工作活動の失敗が原因でその存在が抹消されるが、ギターボーカルのオサヒロの息子である喜三郎が記憶を頼りにコピー音源を作成。迂闊にもダンチュラ・デオを聴いたことがあると言ってしまった「僕」がバンドを巡る様々な出来事に巻き込まれてしまうというあらすじ。

 

 「僕」がダンチュラ・デオを聴いたことがあると言ってしまったのは、軽音サークル内に流れる「マイナーな音楽を知っている人間が優位に立てる」という空気のせいであると、この小説では書かれているが確かに現実でもそういう風潮は存在する。僕自身軽音サークルに所属しているのでたびたびメンバーと音楽の話をする。マイナー音楽を知っていると偉い、とまではいかないが、R.E.M.Animal Collectiveの良さが分かる人と分からない人の間には線引きがされている…ように感じることがたまにある。僕だけかもしれないが。他にも、邦楽を聴いてきた人間の洋楽に対するコンプレックスというのは確かにある。そういう些細な倒錯から始まる物語なのでかなりリアリティを感じた。序盤はね。

 

 前半は小さな嘘をついたために嘘をつき続けなければならない、というセオリー通りの展開。こういう話では後半は「嘘がばれてしまい追いつめられる」または「嘘が大きくなりすぎて後戻りができなくなる」という二つのパターンに分かれるが、本作は後者であった。それもかなり過激な展開で話はこじれていく。ダンチュラ・デオを狙う謎の組織が現れたり、嘘であるはずのバンドのオリジナル映像が出てきたり…。ここらへんの展開が速すぎてちょっと笑ってしまった。

 

 

 あらすじだけだと結構ありきたりなストーリーという感じがするが、この小説の面白いところは特殊な構成だ。ダンチュラ・デオのwikipediaページを全文引用という形で書かれている。wikipediaは誰でも編集が可能なので、この小説の文章が「僕」によって書かれたものなのか、それとも他者によって編集がなされているのか分からないというメタ的要素が含まれている。

 

 〈彼らが隠そうとしたのは「知り合い」の存在ではない。「知り合い」が五十年以上、異国で守ってきたものの正体である。僕はそれをここに何度も書いているのだが書くたびに速やかに削除されてしまい(しかも編集履歴ごと。どういう仕組みなのだ)読者に伝えられなくてもどかしく思っている。推測してもらうしかない〉(p.99~100)

 

 ただ、ストーリーのパンチが強いのでこれがwikipediaからの引用だという意識はたびたび忘れてしまうこととなった。もう少し編集による記述のズレなどが分かりやすくあればよかったかなとも思う。

 

 

 ちなみにwikipediaにはデレク・ハートフィールドの記事が存在する。冒頭を書くにあたって久しぶりに読み返したが、『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』を読んだ後だとより一層面白く感じられた。鴻池留依はもしかしたらこのページに影響を受けているのかもしれない。