ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

 2020年に入ってからずっと体調が悪い。自分の体調を意識すればするほど悪化していくような気もする。病は気から、とは言うがその気を起こさせるのも病なので終わりが無い。今日は研究室に辿り着くなり、意識が飛びそうになるほどの腹痛に襲われてやむを得ず早退した。研究室に配属される前はあんなに気軽に授業をさぼっていたのに、今はなんだか早退するだけですごく後ろめたい。でも今日は仕方がない。そう言い聞かせながら読みかけの本を読んだ。

 

 そんないきさつでジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を読み終えた。

 

 

 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(ここからは『ものすご』と略させていただく)と言えば2012年に公開された映画版の方が有名だろうか。読み終えてから、ネットでこの本の感想を探そうと検索したのだが、ヒットしたのは9割がた映画の感想だった。僕は中古でこの本を買ったが、それには映画化されたときの帯がついていて、しかもその帯がすごい幅を取っていて、せっかくカッコいい表紙なのにそれはどうなのかなぁと思ってしまった。しかし肝心の映画の方はまだ見ていないのでまだ何とも言えない。話がそれたな。

 

 2001年、それは僕は保育所に通っていたころで、もちろんその年に起こった出来事なんてのは覚えてもいないし、ニュースを見たとしてもそれが何であるか認識できていないだろう。しかし卒業してから数年後、ある程度の分別が付くようになった僕は、保育所の卒アルを開く。アルバムの最後には保育所に在籍している間、世間で起こった出来事をまとめているページがある。そこには炎を上げて崩れるビルから逃げる人々の写真があった。それが僕が初めて認識した「9.11」だ。『ものすご』はこのショッキングな出来事をもとにして書かれた小説である。

 

 父を9.11で失くしたオスカー少年が、父の遺品である花びんの中に入っていた鍵の鍵穴を探す物語、というのが『ものすご』を一文で要約したものになる。しかしこの本はしばしば違った観点から語られる。その観点というのは「『ものすご』は実験小説である」というものだ。実験小説好きならば誰しもが知っているであろう木原善彦の『実験する小説たち』でもこの本は紹介されている。何がこの本を実験小説たらしめているのかというと、それは「ビジュアル・ライティング」という作風にある。

 

 「ビジュアル・ライティング」とはその名の通り読者に視覚的な情報を与える書き方のことで、『ものすご』には名刺、写真、ペンの試し書きなどがそのまま文章の一環として印刷されている。とりわけ僕が感動したのはページの真ん中に一文のみが書かれているもので、これは言葉を話せない登場人物が会話の際メモ帳に書いた一文を、メモ帳のレイアウトも含めて表現している。字の詰まったページをめくるといきなり一文だけのページが現れるのは中々息をのむ体験だ。自分の目の前にそのメモ帳が差し出されたような気分になる。

 

 さて、僕はそんな実験小説の側面を期待して『ものすご』を読み始めたわけだが、読み終わってみるとどうだろう、この本を実験小説とカテゴライズするのはミスリーディングなのではないかと思うようになった。なにより、この物語は優しさで満ち溢れている。オスカーが鍵穴を捜索する過程で出会う人々はみな優しい人ばかりで、母とは喧嘩もするがそれは互いの気持ちのすれ違いが原因であって母もまた深い優しさを抱えていることがのちに分かる。「ビジュアル・ライティング」はただこの優しさを表現するための手法として使われているだけであって、読んでいると全然気にならない。実験的な部分に重きを置いていない、むしろこれを語るにはこの方法しかなかったのだなと納得するような気分にもなる。確かに実験的だが、それ以上に不思議で優しい小説だった。

 

 

 オスカーのちょっとクレバーな語りからサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を連想する人も多いだろうが(訳者あとがきでもこの点は触れられていた)、僕は一年ほど前に読んだジョージ・ソーンダーズの『リンカーンとさまよえる霊魂たち』を連想した。ちょっと実験的な部分も似ているし、親子における死というテーマも一致している。そして何よりどちらも優しい物語だ。『リンカーンとさまよえる霊魂たち』が好きな人には『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』も響くはずだと思う。逆もしかり。