はじめまして現代川柳

 結局、結局なんだよな。今自分が一人で暮らしている場所と、家族がいる実家では時の流れ方が違うのだし、長い長い電車の時間も活字を見るのに適してないんだよな。いや、適さなくなったのは時間の方ではなく、僕の方で、少しの距離の移動で心と体がずれるようになってしまったのだった。

 

こわれそうです本日晴天/佐藤みさ子

ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?/柳本々々

美しい鍵だ使えば戻れない/竹井紫乙

 

 日々も、あちらへ飛ばされたり、こちらへよろめき戻ってきたり、しているように頭の核は宙を舞い、高校野球三塁打のようなカッキーンという音は頭の中で久しく鳴っていないのだが、これもまた自分を責める必要があって、あちら、こちらと移動している日々は、あちら、こちらと見せかけてただ同じところをぐるぐると回っていて、その中で僕はどんどん考える力を失っているんだわ。

 

なら君は文学論と情死せよ/筒井祥文

2×2=4って夏の季語なの?/暮田真名

空が来て何を書いてもいいと言う/なかはられいこ

 

 考える力は何によって得られ、何によって失われるか?言葉です。言葉か。言葉なんだよなぁ。言葉と承認欲求が抱き合っているこの時代、自分と他人の承認欲求に辟易とすればするほど、言葉と言葉によってドライブされる頭はぷすぷすとしょぼくれていき、自分の気持ちとは裏腹に歪な承認欲求が癌のように脳を蝕む。腐臭が胸の奥から漂う。結局、何も語れず、ただ実家の猫を愛でる。

 

埋没される有刺鉄線の呻吟のところどころ。

秩序の上を飛んでゐる虫のきらめく滴化/墨作二郎

夕焼けの中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛/木村半文銭

はじめにピザのサイズがあった/小池正博

 

 人と話すと、自分が自分ではない気持ちになる。自分が考える「人と話している自分」と、人と話している自分はどうしようもなく乖離している。この言葉は誰の言葉だ?僕の言葉だ…。ならば沈黙を選ぶのか、いや、沈黙は言葉への最も強い意識であって、基本的に耐え難い。この頭の中の言葉と、今並んでいる言葉。この二つの間の隔たりもまた耐え難い。しかし頭の中にあるものを頭の外へ表現できなければそれは存在しないといって差し支えないのでは、と言う頭の中の声。表現をサボる僕。沈黙を回避したいがための自慰的表現。内省。抑鬱

 

人としてキリンの下を通ります/筒井祥文

土ほれば 土 土ほれば土と水/川上日車

嫌だナァ——私の影がお辞儀したよ/中村富二

 

 実家の部屋。半ば物置と化した無駄に広い僕の部屋。ベッドに横たわり枕を二つに折って顎をのせた僕は現代川柳に対してはじめましてと言う。『はじめまして現代川柳』は現代川柳の作者35名、それぞれ76句、つまり2660句がずらりと並ぶ。自由律俳句と自由律川柳の違いだとか、五七五定型と七七句のことだとか、考えていたはずだが、今となっては考えていたのだっけか、となり、考えていなかったかもな、そうだな、僕は何も考えていないのだな、となり、また、自分が嫌になって逃避行動として思考放棄。そんな僕とは全く関係なく、現代川柳は川柳としてそこにある。らしい。最近そう思えてきた。

 

正確に立つと私は曲がっている/佐藤みさ子

迷ったら海の匂いのする方へ/芳賀博子

だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、/川合大祐

 

次の句が一番好きだ。それだけは分かる。そのことだけで救える気持ちもある。

 

 

銀河から戻る廊下が濡れている/加藤久