コロナの時代の僕ら

 正確な時期は忘れてしまったが、去年の春頃に新しい大学図書館がキャンパス内に作られた。それまではキャンパスの各地に小さい図書室が点在していたのだが、それらを統合した二階建ての図書館が、広大な空き地にどっしりと建てられたのだった。うちの大学は山の上にあるため、図書館からの景色はとても良い。実験の合間に研究室を抜け出して、京都の街並みを眺めつつ、家から持ってきた文庫本を読むということをよくやっている。

 

 わざわざ家から本を持っていくのは、ただただ図書館においてある本がつまらないという理由がある。というか、僕が行っているキャンパスは、工学部が実験するために市街地から隔離されたキャンパスなので、文学作品とかを置く理由がない。電気工学・化学工学などの学術書や、建築の資料集などがいくつもの棚を占拠している。そういった本達に対してつまらないといってしまうのは学生としていかなるものか、という気持ちにもなるが、知識を得るためではなく時間潰しと心の平穏のために図書館に行っている身としては、求めてるものが違うんだよなぁという言葉に尽きる。

 

 しかしながら、最近そんなお堅い図書館に、比較的ライトな本が少しづつ並ぶようになってきた。シェリー・ケーガンの『「死」とは何か』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』など、一般的な本屋さんでも並んでいるような作品を借りれるようになってきた。やはりこのような時代を意識しているからなのか、疫病にまつわる本が新しく並ぶことが多い。その中で僕は、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』という本を借りて、読んだ。

 

 このブログでは、本の感想を書く、という形で記事を作っているが、それだけではつまらないのでなるべく自分の近況や最近考えていることを記事のなかに落とし込む、ということを意識して記事を書いている。だが困ったことに、去年から厄介な疫病が流行り始めた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)だ。これは流行り始めた当初から真偽が定かではない情報がまとわりついていたので、記事の中でこいつに触れることをずっと躊躇ってきていた。なので「新型コロナウイルス」という明確な表現はせず、「こんな時なので…」とか「極めて歪な状況…」などの婉曲表現を用いてきた。

 

 今回、人々が共通の問題をもったことで、価値観・考え方の違いがはっきりと浮き彫りになったと感じる。政府の対応に対して肯定的な意見を持つ人もいれば否定的な意見を持つ人もいる。政府のやっていること、というのはこれまでではなんとなく距離の遠いことのように感じられて、政治のニュースなんてものは退屈極まりないものだったが、去年の三月ごろからは政府の決めたことが僕たちの生活に直接影響を与えるようになった。もちろんこれまでも消費税増税など、身近なところで政策の影響を感じることはあったが、今回はスピード感が違う。今日、政府が決めたことで、僕たちの今後一ヶ月の動きに影響が出る。この凄まじく揺れ動く社会のなかで、何か意見を発することは、爆弾に火をつけるような行為となった。これまで普通に接してきた友人や家族でさえ、それぞれ違う意見を胸に抱えていて、少しでも対話の出力を間違えるとあっという間に関係に亀裂が走るような状況になった。僕は極度の不安障害を持つ人間なので、1日に10アクセスも稼げないようなこの場でさえ、新型コロナウイルスに関することを語るのが怖かった。ほぼ誰も見ていないようなブログだが、同時に、誰が見ているか分からないブログでもある。

 

 パオロ・ジョルダーノも、2月のイタリアで僕と同じように新型コロナウイルスについて考えていた。そして彼は僕とは違い、積極的に考えを発信し続けていた。

 

 パオロ・ジョルダーノは小説家で、日本語訳で読めるのは『素数たちの孤独』及び『兵士たちの肉体』の2作のみである。小説家としてのキャリアが若いということもあるが、これらの作品はあまり日本では知られていない気がする(僕の個人的な意見です)。しかしながら2020年4月25日に発行された『コロナの時代の僕ら』は日本で広く読まれている。その証拠に、学術書しか置いていないような大学の図書館にまで届いている。

 

 2月のイタリア、というと日本人の僕でもそこで何が起きていたのか覚えている。中国で初めに感染が確認された新型コロナウイルスが2月の後半にイタリアに辿り着き、まさしく爆発的な速度で感染が拡大した。外出が制限されたイタリアの街で、人々はそれぞれのベランダに現れ、医療従事者に向けて歌を捧げたという映像は、ニュースをそこまで注視していなかった人でも記憶に残っているはずだ。パオロ・ジョルダーノはそんな街の中で、ウイルスと人、人と人、人と社会、さまざまな現象について考え、優しく慈愛に満ちた言葉で、ときには少し厳しい言葉で、読者及び著者自身に対し理性的な行動をするよう呼びかけている。

 

 このように感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。平時の僕らが不慣れなタイプの想像力を働かせろと命じ、自分と人々のあいだにはほどくにほどけぬ結びつきがあることを理解し、個人的な選択をする際にもみんなの存在を計算に入れろと命じる。感染症の流行に際して僕たちは単一の生物であり、ひとつの共同体に戻るのだ。

 

 僕は忘れたくない。家族をひとつにまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要に迫られても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。

 

 この本には27のエッセイが載せられているが、語られる内容は新型コロナウイルスの感染状況の変化に呼応して変化していく。エッセイが書かれたのは2月末から3月頭というとても短い期間だが、そのわずかな間でも語られる内容の緊張感は確実に変化している。そして、後書きとして載せられた「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」は3月末に、もう一度これまでの状況を振り返って書かれたものである。この後書きが、27のエッセイでの優しい態度とは少し異なり、力強い意思で文章が連ねられている。3月の一ヶ月間でパオロ・ジョルダーノの気持ちが固まったことが感じられて、かなり心を揺さぶられた。

 

 現在、京都は二度目の緊急事態宣言が発令されているが、正直なところ一度目の緊急事態宣言の時よりも僕の意識はかなり低い。宣言が出ても出ていなくても、研究室には行かなきゃいけないし、飲食店の少ないこの地域では営業時間短縮の影響に触れる機会も少ない。だがしかし、これでいいのか?という思いも常にうっすらとある。自分と他人の言動・行動にもやもやする時が多々ある。他人との衝突を避けるため、自分の行動を正当化するため、この曖昧な気持ちに蓋をして見ないようにしてきたが、蓋をすることで忘れてしまう気持ちも沢山ある。この本を読んで、気持ちに蓋をせず、しっかりと見つめて、覚えておくことが大事だと、僕は思った。ただし、他人に迷惑はかけない範囲で。そして、無理をしない程度で。

 

 図書館には、梨木香歩の『ほんとうのリーダーのみつけかた』も置いてあったので今月上旬に借りて読んだ。こちらもコロナ禍というタイミングで刊行された本で、今を生きるためのヒントが書いてある。今の状況で、考え込むことが多くなった人はこれら2冊を読んでみるといいかもしれない。